時が降り積もる

藻岩山の写真にかんして、下川さん(id:Emmaus)が「全体」が見えないのはどうしてかなあと、変な質問を投げかけてくれた。「変」とは、最高の賛辞である。それは「深い」とも読む。

今までずっと藻岩山の写真をその時々に目を凝らして見ているのですが、なぜかその藻岩山の全体が見えてこないのです。ボクが実際に見たこともない藻岩山なのにね。なぜだろう。知りもしないのに。ボクの錯覚かな。内的(intimate)に見ることが出来ないからでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20081120#c1227189218

下川さんのいう「全体」はもちろん物理的な全体像だけのことを指しているのではない。写真にもその痕跡、形跡が残っているはずの知覚体験の全体像をこそ指しているはずだ。

そもそも、下川さんは藻岩山を実際に見たことはない。だから下川さんのいう「藻岩山」は私が性懲りもなく毎朝撮り続けている下手くそな写真に写っている藻岩山から下川さんが見ようとしている藻岩山にほかならない。

そんな変な質問から始まったやり取りの中で、私の中から自然と「霊」とか「スピリット」という言葉が出てきたので、自分でもちょっとびっくりしていた。

下川さん、藻岩山に関して言うとね、以前ちょっと書いたんだけど、その昔アイヌの人たちはまさに目には見えない「霊」、スピリットの固まりとして見ていたらしいのね。霊山ね。そういう見えないもの、ある種の波動を見る眼に近づきたいという気持ちが僕の中では強いのかも知れません。

http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20081120/1227159379

下川さんも戸惑ったに違いない。しばらくして、案の定、下川さんは「裏道」でこう応答してくれた。もったいないので、「表」に出てもらいます。

何かがあります。っていうか、不可視として消え去ることのないものそれに感応するわたしたち自身。霊ということで今は括りたくない暫く留保し注視続けたい何か。

http://f.hatena.ne.jp/elmikamino/20081120142812

下川さんは私が使った「霊」という言葉のもつ一定のニュアンスに強く抵抗している。それはよく分かるが、私としては「霊」という古い言葉の概念を新鮮に解釈しなおしたい気持ちが強い。「写真」の方にウェイトを置くなら、ベンヤミンのいう「アウラ(霊力)」と言ってもいい。それは、下川さんのいう「不可視として消え去ることのないもの」、つまり「見えない力」なのだと思っている。どんな力?

それは記憶ということに深く関わる力だと思う。個人の記憶を超えたより大きな記憶が個人の意識に働きかける力とでも言ったらいいだろうか。でも、それを感受するには、こちら側から、今福さんのいう「筒状の時の穴」が口を開けるまで、時間を耐えなければならない。

その結果「見えてくる」のは、断片的な記録や痕跡から再構成された多数のイメージが多重露光されたような藻岩山の姿である。まるで時が雪のように降り積もって、地層ならぬ時層をなしているような藻岩山の姿。

そんな中で、下川さんが見えないと訴える藻岩山の「全体」に必須なイメージの一群は、豊平川であり、石狩川であり、石狩河口、日本海など、私がいつも藻岩山の裾野や向こう側に強く感じているものたちであることはまちがいないだろう。

藻岩山は単純な対象でありつつも、それらと複雑に有機的に繋がっている。

とにかく、そんな私にとってしかリアルでないはずの「景観」を下川さんが写真から透視していたことに、びっくりしていた。