マサオ日記

風太郎が犬様らしい達観したことを語ったようですが、往生際の悪い人間のひとりとしては、なかなか悟り切ることなんてできません。どう生きるか以前にそもそも生きていること自体が奇蹟であることや、世界がどうだこうだ以前にそもそも世界があること自体が神秘であることを深く感じることはあっても、それは一瞬の白日夢のようなものにしか思えないのが正直なところだからです。でも、下手な喩えですが、そう感じる恩寵のような瞬間が白石だとして、それを梃(てこ)にして、他の大半の重たい時間(黒石)を少しずつでもオセロのように転覆させて行って、人生の盤面を白が優勢な状態に持って行くことはできそうな気がしています。

ところで、数日前に新聞の文化欄で「今和二郎」に関する特集記事を読みました*1。「いまわ・じろう」ではなく「こん・わじろう」です。念のため。今和二郎は「考現学」という大変面白い学問を創始した建築学者です。柳田國男に「破門」されたという曰く付きの経歴の持ち主でもあります。昔からちょっと惹かれていました。気がついたら自分が夢中になってやっていることは考現学に近いなあと思うことがたまにありました。考現学とはそのとき世界を満たしている物すべてを仔細に調べ上げることを通して世界を知ろうとする研究のことです。あくまで「現代の生活」に狙いを定めます。一見極めて即物的な手法のように思われますが、しかし実はもの言わぬ物たちに語らせることを通して世界の恩寵的で神秘的な存在に接近しようとする試みだったのではないかと改めてちょっと思ったりしたのでした。民俗学柳田國男などエリートたちによる言語資料を中心としたあくまで歴史的な世界へのソフトなアプローチだったとすれば、考現学は徹底して低い視線からの世界へのハードなアプローチだったと言えるかもしれません。もちろん、物たちもまた歴史的産物なわけですから、事は単純ではありませんが。

参考:

*1:「今和二郎は終わらない」朝日新聞2009年1月25日(日曜日)16面