敗北の記録

サイレント時代のドタバタ喜劇のように何気ない言葉や行動の反復がしだいにズレていくとき、あるいはもの言わぬ物たちに視線(カメラ)が固定されたときに、思いがけない意味が、生々しい現実の素肌に一瞬直に触れたかのように、そこに生まれる、あるいは引き寄せられるということが奇蹟のようにして起こる場面をいくつも見ながら、小津安二郎の映画を特徴づける映像の文法ともいうべきひとつの方法を学んだ私たちは、改めて、現実と物語の対立的な構図から逃れる道を模索し始めていたのでした。

吉田喜重がくり返し強調する現実の無秩序さとそれを秩序づけると同時に覆い隠してしまう物語のまやかし。いささかも真実などではありえない映画のまやかし、嘘をどれだけ深く自覚した上で、その嘘を嘘と知りつつ、手に負えない現実の膨大な細部からなる複雑さへの感受性の通路を開きつづけるか。どんな物語も現実に敗北する、その敗北の瞬間の接続と累積を通して、かろうじて反物語、反映画としての映画の可能性を追究しつづけることが賭けられていた。そういう意味では、小津安二郎吉田喜重の映画は、現実に対する物語の敗北の記録といえるかもしれません。

他方、私たちは生(なま)の現実、現実それ自体なぞ想定しうるのか、現実なるものはすでに暗黙のうちにさまざまの物語にいわば浸されているのではないか、そんな疑問をいだくこともたしかです。吉田喜重が、それこそ、小津安二郎の映画に登場する人物のように「無秩序な現実」、「現実の無秩序さ」という言葉を反復するのを聞いているうちに、私たちは、むしろ、「無秩序さ」の理由はそのような物語の方にこそあるのではないかという思いにとらわれます。つまり、根源的な秩序を有する現実を粗雑な秩序を与える物語がずたずたに切り裂くことによって、現実は無秩序化するのではないか、と。

レヴィ・ストロースの説を持ち出すまでもなく、私たちは自然の秩序、あるいは生の秩序を深いところで感受しつづけながら生きています。その稠密な秩序に覆い被さる社会的現実という名の物語が与える杜撰な秩序は、人間を大きく引き裂きつづけてきた。小津安二郎の挑戦は、人間の動作や言葉、そして人工物にも、その社会的現実に回収されないような「意味」を暗示させて、最終的に自然の秩序に参与させることだったと言えるかもしれません。吉田喜重小津安二郎のある映画のある場面に関して漏らした「奇蹟のような調和」の正体は私たちが日々触れているにもかかわらず素通りしてしまっている自然の秩序に由来するのではないでしょうか。

いうまでもなく、自然の秩序とは、病や老いや死、あるいは衰弱や崩壊のプロセスをも含む、人間にとっては時には無慈悲極まりない、さらには不条理でさえあるかもしれない時間的でもある秩序です。ただし、そこには人間の驕りが作り出した秩序の浅はかさや愚かさはありません。