故郷(home)って不思議だ。そこから離れたくなかった、そこに帰りたい、帰るべきだとも感じるが、それが永遠に叶わない、そんな感じの場所。しかも故郷がそれとして強く意識されるようになるのは、すでに「そこ」を離れて他所で生活し苦労している場合だろう。故郷は「そこ」を追われた者にとってとてもリアルに生成する非在の場所と言ってもいいかもしれない。だからこそ故郷は様々なイメージと連合したり、究極的には「子宮」や「浄土」の景色とも重なりうるのだろう。
藤原新也『鉄輪』(新潮社)asin:4103692057
自分が生まれ育った町(門司)を去るときに、見慣れたはずの景色(関門海峡)がなぜか幼いころお盆にお寺の幻灯機で見た「浄土」の景色に重なる。
浄土というところは木々に果物ばかりかいろいろなお菓子がいっぱい成っていて、その向こうに黄金色の花畑がどこまでも広がっていた。私は配られたキャラメルや煎餅を食べたながら、その不思議な景色に興味を抱いた。だが、いちばん引きつけられたのは、浄土というところに流れる河だった。広い黄金色の花畑の中をゆったりと流れる河は、まるで空が河となって流れているかのように真っ青だった。その河の水面には、死んだ人の生まれ変わりだというたくさんの阿弥陀仏が、それぞれの小舟に乗って水遊びをしていた。
関門海峡はあの浄土の河のように青く感じられる。そしてその波面のひとつひとつにきらめく陽の光が、たくさんの阿弥陀仏のように見えた。
浄土というのは、ひょっとしたら自分の生まれ育った町のことなのかも知れない。(7頁)
母親と一緒に列車とバスに揺られようやく辿り着いた見知らぬ町は、異国以上に遠く、よそよそしい場所に感じられた。
別府駅に着くと、「鉄輪」行きというバスに乗った。
私はそれを”てつわ”と読んだ。
これがかんなわ、ちゅうんよ、と母は言った。(中略)
……終点の鉄輪に着くと、そこには七十歳の父が停留所のベンチに座って待っていた。
「どうしてわかったん」と母が嬉しそうに言う。
「もう来ることじゃろうと思うてな」と父は何食わぬ顔で答える。
私たちは父が前もって見つけておいた貸間のある家の方に向かって歩きはじめる。鉄輪の町全体が見渡せる場所を通りかかったとき、私たちは立ち止まり町を眺めた。不思議な光景だった。月明かりに照らされて、町のいたるところから、もくもくと青白い湯煙りが上がっていた。
「……地獄みたいやね」と私は言う。
「ここじゃ、地獄めぐりもできるけぇの」と父は言った。
「鉄輪っちゃ、地獄ちゅう意味なんかね」と私は訊ねる。
「温泉は地獄じゃのうて……」と父は言う。
「そう、天国みたいに、ええところなんよ」と母は言葉を添えた。
しばらくの沈黙があって、それから私たちはまた歩きはじめた。(38頁〜39頁)