マサオ君のブログの思想2


 シナリオ構造論 (宝文館叢書)


今マサオ君はゼミ最終回の準備というか趣味で小津映画のシナリオに深く関わったことでも知られる脚本家の野田高梧が書いた『シナリオ構造論』(1952)の「葛藤」から「危機」そして「クライマックス」にかけての劇的局面の構成部分を興奮気味に読んでいます。

 葛藤は、大体、次のような二つの系列に分けられている。
   主系的葛藤(Major Complication)
   傍系的葛藤(Minor Complication)

(中略)

 従って、伏線とか、省略とか、危惧感(サスペンス)とか、その他さまざまな技巧が最も有効に使用されなければならないものも主としてこの葛藤の部分であり、兎に角、この部分では内容の発展に充分意を用いると共に、その表現の上でもまた充分に新鮮な工夫が施されることが必要である。
 葛藤は、そして、それが或る緊張点に達すると、そのテンポの急迫やその危惧感の増大と共に、しばしばそこに危機を孕む。即ち、右するか左するか、そのいずれかに決定しなければそのおさまりがつかないというような岐路に立つのである。……

 178頁〜179頁

「なるほど。しかし、自分の人生を「シナリオ構造論」的に眺めることは大きな間違いだろうな、、、」(マサオ君)

さて先日マサオ君がブログについてぶつぶつ言っていたことをかいつまんで書いたところ(http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20090710/p2)、一部に誤解を生んだようなので、ちょっと書き足しておきます。

マサオ君は一方では、ブログは何かの手段ではなくてそれ自体が目的であるとか、公開=出版(publication)の最終形態であると威勢よく言い放ったかと思うと、他方ではブログなんかいつなくなったっていいと一見正反対の矛盾するような弱気の発言をしています。しかしよく見て下さい。彼は決してブログが数多あるメディアの内の単なる一つの道具にすぎないとは言っていません。彼は一般論を嫌います。むしろ可愛さ余って憎さ百倍に近いひねくれた表現でブログへの愛を語っているのです。その辺誤解なきよう。同じことはtwitterだのtumblrだのにも当てはまることです。彼はどんなメディアも差別しません。問題はそれを粛々と使いこなす人はイケてるが、ぐだぐだ論評する輩はイケてない、といったシンプルな基準で世間を眺めているというだけのようです。現に、マサオ君はもう爺なのでtwitterには付いて行けないようですが、tumblrには止せばいいのにときどきちょっと手を出しているようです。その点では、継続は力なり、という古くさい考え方に取り憑かれてもいるようで、とにかくごちゃごちゃ言わずに一見淡々と続けている人には一目も二目も置くという癖があるようです。