花のように本を愛でる

先日、「花と本」と題したエントリー(http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20090831/p2)を書いた。その日ちょうど届いた三冊の洋書の外観を花のように眺めた時の印象を敢えて大きな写真とともにごく簡単に記した。自宅裏に毎年咲くエゾアカバナの可憐な小さな花の写真と並べた。なぜそういうことをしたかというと、その三冊はパッケージとしての本の質がかなり高いと感じたからだった。決して高価な本ではないし、豪華な装幀でもない。むしろ質素と言ってもいい印象さえある。それにもかかわらず、中身の魅力を感覚的に最大限に引き出したような質の高いパッケージなのだ。ここでいうパッケージとは書き手と読み手が出会う場と言ってもいい。その質が出会いを大きく左右するといってもいいだろう。その点で、その三冊は手に取った瞬間、いや、見た瞬間に、「いい本だ」と思った。後から実際にいい本だと納得もした。それは道端や空き地でふと目にとまった花に近づいてよく見たら息を呑むほど美しいと感じたときの体験に似ている。それらに比べて、最近読んだ日本の本の多くはパッケージとしての質の低いものが多かった。それには慣れてしまっているので、中身に集中して、パッケージのクオリティの低さは忘れるよう心がけているほどだ。でも、中には本当に酷いものもある。中身の素晴らしさを殺していると断言してもいい酷いものもある。容れ物(パッケージ)と中身の乖離。そういう本に出会ったときは悲しくなる。できることなら、すべてを解体して、その中身に相応しいパッケージを自分で作りたくなる。せめて、カバーを外し、表紙も破って、裸になった本文の頁の束を、その中身に相応しい表紙やカバーで包んでやろうと思い立ったこともある。一番驚いたのは、本文は素晴らしいのに、著者自ら書いたはずの「あとがき」が本文を殺してしまっているという場合であった。信じられないことが起こっている。著者が自分の本殺しに加担しているのだ。それは、昨今の日本の編集、出版の現実の一端を物語っているように思えた。自分が書いたものをどんな読者にどう届けたいのか、そしてその中身に感動したはずの関係者はそれが正しく直観的に伝わってくる「形」をどう実現したいのか。パッケージ化に関わる作業は中身の祝福以外の何だろう。いい本は中身はもちろんのことそのパッケージを含めて美しい花のように愛でたくなる本だと思う。