PITLOCHRY:灰色の石の土地を黒い川が流れる


 Flowers, October 26, 2009


百年の時を隔て、夏目漱石スコットランドでの足跡を追跡した多胡吉郎氏の労作『スコットランド漱石』(asin:4166603981)を読みながら、ピトロクリというアイヌ語を彷彿とさせる英語らしからぬ地名、その由来、そして、その地を流れる「黒い川」に俄然興味が湧いた。ピトロクリはゲール語で「石の多い村」を意味し、その地をピートが溶け込んで黒味を帯びた清流のタンメル・リバーが流れるという。石山を豊平川が流れる私が住む土地のイメージを重ねて見る。

 夏目漱石スコットランドのピトロクリを訪ねたのは、二年に及んだイギリス留学の最後、まさに帰国直前のことであった。一九〇二年の秋、おそらくは十月のことと思われる。
「倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり」(『文学論』)------
 ひたすら不愉快を募らせて行ったロンドン生活の果てに、漱石は、祖国日本との間にクッションを挟み込むような形で、スコットランドに向かったのである。(12頁)


 ピトロクリはエディンバラの北約百五十キロ、スコットランドの北半分を占めるハイランド(高地)地方にある小さな町である。ロンドンからは、漱石の時代も今も、一日がかりの長旅となる。(14頁)


 ピトロクリにいる。
 山に囲まれた、静かな町である。空気が澄み、町も人も楚々として、落ち着きがある。
 PITLOCHRYという地名は、イギリスのものとしはまことに珍しい。第一、音からして、英語らしくない。コロポックルかなにか、小人か妖精の口にする魔法の言葉のように可愛らしい響きだ。
 私は漱石に倣って、ピトロクリと呼んでいるが、地元ではピトロホリ、或はピトロッホリと、CHをドイツ語やオランダ語のように喉を鳴らしながら息を一気に出して発音するのが正しいらしい。ただし、最近では必ずしも伝統の喉鳴らしの秘儀に忠実でなくともよくなったようで、この町でもピトロクリと発音されるのを何度も耳にした。
 ピトロクリのPITはもともと「村、場所」を表す言葉で、「石」を意味するCLOCHという言葉が付いて、「石の多い村」を表すらしい。いずれも、スコットランド古来のゲール語での話である。
 なるほど、町には石が多い。家々の屋根や外壁も、教会堂も、道に沿った塀も、多くが石で出来ている。しかし堅苦しい印象はない。
 幾分の冷気を秘めた大気の中、木々の緑が柔らかに町を包み込み、灰色の石は静かに時の経るに身を任せている。石もまた、命ある物と共に、しめやかに呼吸をしている。(23頁〜24頁)


 シンプルこの上ない。自然の力に委ねている。そこが、いい。東屋も茶店も置かれず、人工的なガーデンが設えられるでもない。足し算をしないのが、ありがたい。
 草原の彼方、谷の底には、川が流れている。タンメル・リバー。西にいくつか山を越えた所に水を張るタンメル湖と、更にその奥のランノッホ湖を水源とする。
 川幅は、そう広くない。広い所でも三十メートル足らずであろうか。水深は、最も深いところでも一メートルあまりだろう。山合の川らしく、いかにも冷たそうな水が、澱みなく流れて行く。かつて、キリクランキーの戦いに倒れた兵士たちの血は、この川を伝ったのである。
 清流だが、水は黒味を帯びている。ピート(泥炭)を含んでいるためだ。ピートはウィスキー造りに使われる。スコットランドはウィスキーの本場であり、ピトロクリにも蒸留所がある。「染粉を溶いた様に古びた色」を、漱石は形容した。うまい表現だと思う。またしても、「古びた」である。
 ピートが溶け込んだことと関係があるのかどうか、岩に砕け、瀬に砕けて出来たに違いない水泡が、水面に浮いて流れて行く。
 ごく自然に「方丈記」の冒頭が、口を突いて出た。
「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水に非ず。淀みに浮ぶうかたかは、かつ消え、かつ結びて、久しく留まりたるためしなし。」(39頁〜40頁) 


そういえば、先日タクオが土産に持参してくれたシングルモルトのスコッチウイスキーラフロイグLaphroaig)はスコットランドの西海岸沖に浮ぶアイラ島産だった。強烈な潮の香とピート香が交互に鼻腔に渦巻くような刺激的な味。なぜか懐かしい気がする好きな味だった(http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20090828/p1)。