ノレ・ノスタルギーヤ




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物語、物語って言うけど、分かったようで分かんない。でも、姜信子さんの物語を読んで、その中に登場する男たちや女たちの物語を読んで、ストンと胸の底に落ちるものを感じた。物語はすべて「はじまりの物語」なんだ。それがたとえかつて色んな事情でそこを追われ、そこに帰ることのかなわない故郷の思い出を語ったものだとしても、それはたんにノスタルジー、ロシア語でノスタルギーヤなんかじゃない。いや、言葉によって何かを名付けるときに言葉からはみ出るもの、逃れていくものを見失わなければ、ノスタルジーでもいい。ただ、やっぱり、単なるノスタルジーだと後ろ向き、過去を引きずったままととられかねない。だから、でも、ノスタルジーであることには変わりないから、それを「歌う」ことで、「歌」にすることで、いまここで生きることに前向きのポジティブなエネルギーを注ぎ込む。歌。韓国語で「ノレ」。そうだ、ノレ・ノスタルギーヤ。日本語の上で韓国語とロシア語が出会い、その衝撃が日本語を深く大きく揺らす。そこには日本語でも韓国語でもロシア語でもない、旅の言語が生まれる。ノレ・ノスタルギーヤ。旅はいつも足許で始まっている。その始まりに気づくことは難しい。私ははじまりの物語を忘れている。人生の本当の始め方を習ってこなかった。はじまりの光景、はじまりの風景を見る目をちゃんと鍛えてこなかった。

 どこから来たのか? 何者なのか。というような、現在をまるで過去からの終着点とするような言葉ではなく、どこに行こうか、どう生きようかと、人は何よりもまず、始まりのことばを探し求めている。

 そして、思うに、私たちが何かに行き詰まって身動きがとれなくなっている時には、おそらく、終着点の言葉を、始まりのことばと取り違えているのです。

 私たちは、自分ひとりではどうにもならない大きな流れの中で、どこに行こうか、どう生きようかと、千々に思い迷いながら、夢を追いかけて、日々を生きている。誰かに与えられる筋道たった結論で飾られた正しい歴史の物語ではなく、きれいに整理されようもない迷いや夢が織り成す始まりの物語こそが、私たち人間の生のありか。そう思えてならないのです。(姜信子『ノレ・ノスタルギーヤ』21頁〜22頁)


 思うに、いつの世も、明日を見つめて旅する者たちは、大切な何かを過去に置き忘れることなく、生きていくカラダのリズムで紡ぎだされる言葉で歌い語りながら、みずからの足で新しい地図を描きながら、「はじまりの荒野」を生きてきた……。(238頁)