旅人や研究者が辺境と呼ばれる土地や紛争地域や文明の圏外から持ち帰った写真や言葉は圧倒的に美しく、正しい。だが、それ故に、そうではない場所で生きるぼくらにとってはそれらは何の役にも立たない、そんな生活、そんな時代に戻ることなど不可能だ、という思いが先ずはよぎる。小賢しい評論家的反応だとすぐに反省する。そしてやっぱり違うと思う。本気で戻ることを考えようともしないだけだ。こちら側での、文明の圏内での既得権益を手放したくないだけだ。その気になりさえすれば、いつからだって、どこでだって、少しずつではあるだろうが、戻ることはできる。それに、文明を一刀両断するごとく全否定することは性急すぎる。科学技術だって使い用だ。森を破壊するのではなく、森を守るためにテクノロジーを駆使することだってできるはずだ。ただし、その前にぼくらが忘れてしまった生き方を思い出す必要がある。そこからすべては始まるとすれば始まる。釧路生まれのフォト・ジャーナリスト長倉洋海(ながくらひろみ)さんが写真と文章で伝えてくれるアマゾンの先住民インディオの生き方には、人間にとって必要なほんのわずかの、しかし、シンプルで深い「すべて」があると感じる。そして、写真と文章からひしひしと伝わってくるのは、こちら側の人間である長倉さんがインディオが生きるあちら側の世界に分け入っていく捨て身の行動そのものである。何が彼をそうさせるのだろう? おそらく、それは「知恵」ということなのだと思う。そう思ったのは彼が旅をともにした「森の哲人」ことアユトンの言葉がきっかけだった。ブラジルのインディオであり、文明の功罪を知り尽くした、アユトン・クレナック。長倉さんは十年前にアユトンとアマゾン各地の先住民の諸部族を訪ねる旅をした。本書はその旅の記録である。レヴィ = ストロースの訃報に接した直後に文庫本になった本書を手にした。因縁を感じた。本書の最終第四章、旅も終わりに近づいた時、長倉さんはアユトンに「言葉」について質問した。それに対してアユトンは「受けとる人間に心の幅があって初めて、言葉の深い意味を感じ取れる。自分の経験だけを最上と考えずに、言葉にヒューマニティをこめなければならない。言葉で人を幸福にすることも、悲しませることもあるし、戦争になることだってあるのだから。私は人と話す時に、知恵をうまく使って会話できなかったら、土の中に潜りたくなるくらい恥ずかしくなる。言葉は人を傷つけるものではなく、創造のために使うべきものなんだよね」と答え、次のような謎めいた「おばあさん」の寓話について語った。
「自分の道をさがしに青年が旅に出た。途中で出会った醜いおばあさんが、『あんたは言葉を話しているだけか、それとも本当の意味を知って話しているのか』と問いかけてきた。青年が『話しているだけ』と答えると、おばあさんは『本当の意味を知らないとだめだね』と言った。青年がもう一度、そのおばあさんを見ると、美しい女性に変わっていた」------。その話の意味がわからず、アユトンに問い直すと、「おばあさんは自分を映し出す鏡なのです。自分が言葉をただ表面的にしか使っていなかった時には醜く映ったが、青年がおばあさんの力(知恵)で言葉の深い意味をわかるようになったら美しく映るようになったんだ」と教えてくれる。
「人間のイルミネーション『輝き』は持って生まれたものだが、知恵によってその輝きを大きくできる。人は自分に嘘をつかず、経験を積みながら自分の道をさがしていかなければならない。知恵はその旅のガイドのようなもの。人間は迷い、傷つくが、それも勉強です。輝きと知恵で”道”を見つけ、しっかりと『自分の道』を歩いていかなければなりません」(182頁)
驚いた。本書で「あばあさん」に出会うとは思いも寄らなかった。