タイム・スリップ


西蔵放浪 (朝日文芸文庫)

西蔵放浪 (朝日文芸文庫)


今から40年あまり前、1960年代末、「外国に行くならアメリカかヨーロッパという風潮があった。そっちの方に行くひとは、みなえらく見えたし、えらくなって帰ってくるような気がした」(458頁)時代に、二十歳そこそこの藤原新也はインドを旅した。「印度などに行くというと、笑いのたねになるのがおちだった」(459頁)時代である。その時の状況を十年後に振り返った文章の中で彼はこう語っている。

 その頃、印度を旅していた日本の若者が全然居ないわけではなかった。僕よりもずっと前に、この土地を経験しているひとも居た。時たまそのような青年たちに出会うと、お互い辺境の地に追いやられた感じで気恥ずかしかった。ひどい旅で、みな、シュロ縄のベッドの上で疲れた顔をしていた。口数も少なかった。足音もひかえめに、みな自分の影を踏んで歩いていた。しかし、あの頃、印度を旅していた青年は、みな、みずからが知らぬうちに激しく息を呑んでいた。息をつめて歩いていた。澄んだ眼に、眼の前のできごとを映していた。(460頁)

そして、そんな「自分の影を踏」み、「激しく息を呑んで」、「息をつめて歩」き続けるような旅で得た確信について、「地球に住まうそれぞれの人々には、それぞれの<今>というものがある」と語り、こう続ける。

僕は過去十数年の旅の中で、最も急進的な<今>を持った国から、中世以前の時間を持った国まで、様々な地層年代の土地を幾度となくタイム・スリップして来た。そのような旅の中で、僕は時間というものの流れに対する一つの小さな単純な確信を持たらされた。それは、人間の保持して来た<今>というものは、過去の<今>から現在、あるいは未来の<今>に向かって逆進化しているということである。さらに言えば、科学は進化し、人間的なるものは退化するという地球上の時間の構図があきらかに見えたと言ってよい。(9頁〜10頁)

本書を読みながら、私は私で日常を旅に見立てて、歩きながら、言うも恥ずかしいほんとうにちっぽけなスケールにすぎないけれども、「タイム・スリップ」をいろいろと試みているのだと再認識した。


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