旅のあとさき


雪道



原生林のオオウバユリ(大姥百合, Giant lily, Cardiocrinum cordatum var.glehnii.



苅谷さんの畑




三浦さんちのハナ



小坂さんちのボケ(木瓜, Flowering Quince, Chaenomeles speciosa)の実



大槻さんちのヤグルマギク矢車菊, Cornflower, Centaurea cyanus



一昨日の夜遅く出張から戻った。札幌は吹雪だった。昨日は、朝から久しぶりの雪かきをし、散歩を終えてからは、旅の間に撮った写真の整理を少ししただけだった。ぼろぼろのモレスキンの手帳には、細かい事実の言葉による記録が貯まっている。しかし、写真や事実をただ並べたりつなげたりしただけでは、旅を物語ることにはならないので、いざ旅について書くとなると、物語る視点をああでもない、こうでもない、と模索することになる。今朝はそんな模索の跡が恥ずかしいほど露呈した記事を走り書きに近い状態でとりあえずアップした。

今回の出張の直接的な目的は、「絵巻物による日本常民生活絵引」を中心とする「字引」ならぬ「絵引き」という発想と膨大な歴史的写真記録群のデジタル・アーカイブ化の展望と可能性について探るべく実態を視察し、関係者と話し合うために、神奈川大学日本常民文化研究所山口県周防大島文化交流センター、そして広島市郷土資料館(特別展「旅する民俗学者 宮本常一と広島」)を訪ねることだった。それらの成果についてはいずれなんらかの形にまとめたいと思っている。

絶えず散逸と劣化の危険に晒されている物としての文書や写真(ネガ)はとりあえず一ヵ所に蒐集されることが望ましいのはいうまでもない。そして、保管自体につきまとう問題はさておき、保管されている資料の活用方法がウェブを視野に入れて縦横に考案されてしかるべきである。とにかく、できるだけ多くの記録を気軽にいつでも何度でも読める、見られるような環境作りが求められていることを痛感している。ウェブはそのために少しずつ進化してきたとも言えるはずだが、まだまだ使い物にはならないものが多く、オリジナルの記録を扱える立場にいる人たちには、ウェブにおける活用という発想が欠けているように思われて仕方がない。

例えば、「宮本常一データベース」(http://www.towatown.jp/database/index.asp)の構築が中断し放置されたままであることは、非常に残念なことである。仮に予算がないとしても、今の時代にそれは理由にならないだろう。周防大島文化交流センターにまで足を運ぶことができない圧倒的多数の人々に向けて開かれた「交流」の場を真剣に作ろうとする気持ちがあるならば、、。


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しかし、それにしても、旅というか暮らし慣れた土地を離れて移動することはいつでもそういうものだろうが、今回も、予定外、予想外の出会いや、そんな出会いで触れる言葉や考え方、見方、そして生き方に深く教えられることの方が圧倒的に多かった。いつものことながら、出張の目的を果たす合間合間に、あるいは目的を果たし終えてからも、少しの時間を惜しんでずいぶんと歩いた。移動した。寄り道した。















広島では、広島市郷土資料館を訪ねる前後に、井伏鱒二土門拳石内都子などの眼を道連れにして平和記念資料館を訪ね、原爆ドームの周辺を歩いた。そして現在の広島の街を出来るかぎり歩いた。広島に生きる人々にまぎれて市電に乗って街を移動した。市電で隣に座った「当時の面影はまったくない」と語る被爆した老人と世間話をした。すでに亡くなった奥さんと晩婚旅行に北海道に行ったことを懐かしく語ってくれた。耳が遠く、目もよく見えず、足の調子も悪いと嘆きながらも「人生、思うようにはならん。アッハッハ!」と豪快に笑った。被爆したものの損害が軽く現役で運行中の650号系の二台のうちの一台である652号の木製内装の市電に偶然乗って当時の面影はまったくないという広島の市街を何らかの「面影」を求めて移動した。開発の手からこぼれた愛友市場近辺や東郵便局の裏手を歩いた。そこだけ時間がゆっくり流れていた。愛友市場の路地にある食堂「まるびや」の定食は美味かった。若い店主と市街地の開発について話した。銀山町を歩いてみることを勧められたが、時間はなかった。60年前からやっているという古風な純喫茶ブランカと同じように古風な純喫茶パールにも入った。コーヒーに小さなクッキーやピーナッツが附いて来る。懐かしく嬉しかった。そこも時間がゆっくりゆっくり流れていた。店主のおばあさんや常連客のおじいさんと世間話をした。私を写真家だと勘違いしたらしいパールの阿部さんは広島の素晴らしい写真集があるから、見せたいと言ってくれたが、時間がなかった。再来することを約束した。