月で樹を伐る者たちの、寝物語(sweet nothings)

寝物語
 (男女が)寝ながら話すこと。また,その話。(『大辞林』より)


寝物語
 a conversation in bed between husband and wife [between lovers];
《口語》 pillow talk; 〈睦言(むつごと)〉 sweet nothings.(『新英和・和英中辞典』より)



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1996年に共同通信社を退社した後、2004年3月に新潟で講演中に脳出血で倒れる前、1998年に辺見庸は『ゆで卵』角川文庫版の解説代わりのあとがきの中で、本書は「寝物語」のような小説であると書いている。

寝物語は会話の最上の形式である。それはセックスのみを意味しはしない。死の床にあってさえ、寝物語は可能だと思う。私が死にゆく者なら、生者が私の背中に語る寝物語を喜んで聴くだろう。愛と寝物語は必ずしも同じではない。深い友情のようなもののほうが、よき寝物語の動機になるかもしれない。

 そうなのだ。本書の話は皆、寝物語のようなものである。寝物語というやつは、とろとろと話し出されるものである以上、生きる元気にも死ぬ勇気にもつながりはしない。私の書くものはたいていそうだ。これを読んで、突然に愛国者になったり、勉学に感奮興起(かんぷんこうき)したり、明日からの仕事に意欲を燃やす読者などまずいまい。むしろ、明日はぷいっと休みをとるなりして、朝寝でもきめこみたくなるのではないか。もしくは休職したくなるとか、休学したくなるとか、家出したくなるとか……。そうだといいな、と私は思う。(「月で木を伐ること------文庫版の読者のために」280頁)


そして、そのような寝物語のごとき小説を書くに至った動機について、幼少期から矯(た)めることができなかった「ねじくれた性格」が、そのうち「逐(お)われるという感覚」をこしらえ、ついには「まっとうな人々、まもとな世間」からの「自分の追放」を決めてしまったあたりにあると語り、「まっとうな世間」からの「自己放棄」(森巣博の「蜂起」に近い?)とその「落とし前」のつけ方として、シシュフォスの神話に酷似した中国の説話「月の樹を伐る」で語られる非常に印象的なイメージを伴った意味深長な永遠の罰について書いている。

 自分で追放を決めたからといって、別に途方もない不都合が生じるわけではない。いまでも、ときに応じ、やむなく「まっとうな仮面」をかぶることがある。短期的にであれば、自身呆れるほど立派に、まっとう男に扮することができるのだ(たしかに、そのリバウンドはひどいけれども)。つまり、年がら年中、お天道様に背を向けて歩いているというわけでもなく、なんというのか、すねた性格に自身を一元化しましたということではないのである。ただ、はっきりと諦めたのだ。いつかまっとうになろう、などという幻想はもう捨てた。まっとう幻想にもう未練はない。逐われた感覚とは、強いて語れば、そうした自己放棄に似ている。捨てばちといやつに近いかもしれない。けれども、それで済むというものでもない。世間も人間の本性もそんなに甘くない。反りが合わぬ、いや、反りを合わせぬことの落とし前は、結局のところ、自分でつけなければならないのである。

 私の場合、落とし前とは、月で樹を伐(き)ることだ。
 唐突に思われるかもしれない。でも、この十年来、勝手にそう考え、ことあるたびに、「月で樹を伐ること」と呪文みたいに自らにいい聞かせている。月で樹を伐る。いつか、どこかで(たぶん中国にいたころだろう。が、はっきりとは覚えていない)、これは読むか聞くかした話なのである。……ある男がひどい過ちを犯して、月に逐われた。罰として、月に生えた巨木を伐り倒すよう命じられた。ところが、根かたにいくら斧を打ちこんでも、樹はいつまでたっても決してうち倒れない。なぜなら、月に生える樹というのは、斧で傷つけられるさきから、傷が癒えていくから。しかし、月に逐われた男は、伐っても傷つかない樹を伐り倒すべく永遠に斧を振るわなければならない。たしかそんな説話だった。
 シシュフォスの神話にずいぶん似ている。前者は樹、後者は岩。さて、伐っても伐れない樹を選ぶか、それとも、山頂に持ち上げてはまたごろごろと落ちてくる岩を選ぶか。いついかなる時でも易きにつきたい質の私はしばし考えたものだ。逐われた者に罰として課せられる行為として、どちらが楽か、と。で、月というシチュエーションにも魅かれて、樹を伐るほうをとった。(282頁〜283頁)


身につまされる話である、、。