嫌悪から受容へ:孤独とエゴとの間の隘路

終わりなき闇 チェット・ベイカーのすべて

終わりなき闇 チェット・ベイカーのすべて

Deep in a Dream: The Long Night of Chet Baker

Deep in a Dream: The Long Night of Chet Baker

美と破局 (辺見庸コレクション 3)

美と破局 (辺見庸コレクション 3)


Let's Get Lost [1988] [DVD]


『終わりなき闇』について、辺見庸は渾身のチェット・ベイカー論「甘美な極悪、愛なき神性」(辺見庸『美と破局』に収録。初出『PLAYBOY』2008年8月号)の注3で興味深い触れ方をしている。

ジェイムズ・ギャビン著、鈴木玲子訳、河出書房新社刊。二段組五百頁の、チェットものとしてはおそらくもっとも詳しい一冊である。原作、翻訳ともにまさに労作で、貴重な資料写真も多数収録されている。鈴木さんの「訳者あとがき」がじつに率直で興味深い。「正直に言おう。本書に「取り憑かれ」ていくうちに、私はどんどんチェット・ベイカーという人間が嫌いになっていった。ドラッグで身を滅ぼしたアーティストの話なら、ほかに山ほどある。ビリー・ホリデイの詳細な評伝の翻訳もした。パンク・ロッカー、シド・ビシャスを描いた映画の監督と親交があり、製作の詳細な背景を何度も聞いたり訳したりした。だが、これほどまでに、ドラッグによって邪悪な人間性をさらけ出した人を、ほかに知らない。ビリー・ホリデイはむしろ「犠牲者」だった。チェット・ベイカーは救おうと差し伸べられた手を何本も平気でへし折った。「凶悪な犯罪者」だ」。(『美と破局』22頁〜23頁)

付言するなら、本書には、ジェイムズ・ギャビンが執筆中「バイブル」として手放すことができなかったというデンマークの作家で歴史研究家でもあるトールビョルン・スヨグレンの『チェット:ディスコグラフィー』に依拠した詳細なディスコフラフィーも付されている。

引用された鈴木玲子の「訳者あとがき」はたしかに「興味深い」。

それはこう始まる。

 足かけ三年。チェット・ベイカーの亡霊は私に取り憑き、「早く日本人に、おれの人生の真実を知らせるんだ」と急き立てつづけた。写真のキャプションを最後に、とりあえず翻訳作業をすべて終えた私は、『レッツ・ゲット・ロスト』のビデオを観た。初めてこれを観たのは、かつて勤めていた映画配給会社の試写室だった。何年ぶりだろう……。(『終りなき闇』475頁)

そして、辺見庸が引用した部分の後はこう続けられ、締めくくられる。

……そして作業を終えて、改めて『レッツ・ゲット・ロスト』を観たわけである。
 不思議なことに、この人に対する嫌悪は消えた。ブルース・ウェーバーならではのスタイリッシュな映像から浮き上がるのは、ひとりの男の「孤独」でしかない。彼はこの映画が公開される前に亡くなったわけで、まさにこの映画で語る彼の言葉、笑顔、演奏、いっさいが「最後の彼」である。その「最後の彼」がスクリーンから訴えるものは、「孤独」のみであった。
 私はようやく、本書と格闘した三年間の意味を悟った。私はひとりの男が終わることのない闇から逃れたい一心でつづけた「孤独との格闘」の一部始終を、日本の人々に知ってもらうための仕事をしたのだ。だが、だまされてはいけない。音楽の美しさも、凄絶なまでに深い孤独の淵も、すべては彼自身のエゴの産物。
 もはや誰にも、その是非を問うことはできないが。(『終わりなき闇』476頁)

こうして、鈴木さんは自ら「格闘」と称する三年間の翻訳作業の意義について語りながら、鈴木さん自身の「嫌悪(拒絶)」から「受容」への心の変化、心的相転移について語り、その一応の締めくくりとして、「孤独(との格闘)」と「エゴ」の関係に触れているところが大変興味深い。それは、鈴木さん自身の「孤独(との格闘)」と「エゴ」との関係、そしてあるいはその隘路を示唆しているように思える。辺見庸が鈴木さんの「その後」を敢えて引用しなかったのは、「甘美な極悪、愛なき神性」そのものが辺見庸によるチェット・ベイカーに対する嫌悪から受容への相転移に重なる孤独とエゴとの間の隘路をなんとか言語化する試みだったからだと思う。

ところで、トールビョルン・スヨグレンの『チェット:ディスコグラフィー』についてはまったく調べがつかなかった。


参照


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