ソローはキリスト教から自由であったのみならず、ヨーロッパの文学や哲学に対しても一定の距離をとって非常に手厳しい見方をしていた。イギリスには記憶すべき韻文のただの一つもない、などと。その反面、東洋思想、とりわけインドの宗教や哲学に対する偏愛とも受け取られかねない深い共感を随所で語った。ソローにとっては、観照(contemplation)に徹するインド哲学が到達した精神の普遍性に比べれば、ゲーテでさえ実践的(practical)で落ち着きがなく、理解(understanding)の狭い領域に閉じこもっているに過ぎず、バガヴァッド・ギーター(『マハーバーラタ』の中の一つの挿話)の巨大で宇宙的な哲学の傍らに置くと、シェイクスピアでさえ幼いほど青臭く(youthfully green)、ただ現実的(practical)であるだけであった。そして「東洋の哲学者たちと比較すると、現在のヨーロッパはまだ何も生み出していないといってよいだろう」あるいは「西洋世界は、東洋から受けるよう運命づけられている光をまだすべて引き出していない」とまで述べた(山口晃訳『コンコード川とメリマック川の一週間』164頁)。
そんな過激なソローが夢見た<書物>がある。彼はそれを国や民族や人種の違いを越えた「人類の聖書」、「書物の中の書物」と呼んだ。こんな書物である。
中国人、インド人、ペルシャ人、ユダヤ人、さらにいくつかの国民の聖典あるいは集成された神聖な書物を、人類の聖典として合わせて印刷することは、時代にふさわしいことなのではないだろうか。新約聖書ばかりがこの意味で聖典と呼ばれ、依然としてあまりにも人々の唇に上り、人々の心の中にありすぎる。こうした並列と比較は人間の信仰を緩やかにする助けとなるであろう。この営みはきっと「時」が編集してくれ、印刷の労は報われるはずであろう。これが聖書となるだろう。すなわち伝道師たちを地上のもっとも遠い場所まで赴かせる書物の中の書物であろう。(山口晃訳『コンコード川とメリマック川の一週間』165頁)
It would be worthy of the age to print together the collected Scriptures or Sacred Writings of the several nations, the Chinese, the Hindoos, the Persians, the Hebrews, and others, as the Scripture of mankind. The New Testament is still, perhaps, too much on the lips and in the hears of men to be called a Scripture in this sense. Such a juxtaposition and comparison might help to liberalize the faith of men. This is a work which Time will surely edit, reserved to crown the labors of the printing-press. This would be the Bible, or Book of Books, which let the missionaries carry to the uttermost parts of the earth. (Henry David Thoreau, A Week on the Concord and Merrimack Rivers, LA.*1, p.116)
それだけか、と思われるかもしれない。だが、それだけのことがいまだかつて実現されたことはないのである。いまだ「時」は編集してくれていない。‘others’ の中に各地の先住民の神話等も含まれると考えて、そのような「書物の中の書物」が人類全体の「聖書」として出来上がり、ソローのような伝道師がその普遍的な教えを赴いた先々で人々に伝えながら旅を続けられたなら、あるいは、20世紀の大きな悲劇はすくなくとも部分的には避けられたかもしれない、、そんな歴史のごく僅かの可能性のことをちらりと夢想した。そして21世紀の現在、インターネットのウェブ上でソローが夢見た「書物の中の書物」が編集される準備の「時」が流れ始めていると考えられないわけではないだろうと思ったりもした。
*1:Henry David Thoreau, A Week on the Concord and Merrimack Rivers; Walden; or Life in the Woods; The Meine Woods; Cape Cod, The Library of America, 1985