揮発性の真理、度を–超すこと!(The volatile truth, Extra vagance!)


顔(Face)


辺見庸の「ミルバーグ公園の赤いベンチで」のなかに頭(顔)のとても小さな女と顔のない大きな男が登場する。頭(顔)のとても小さな女は右手の人さし指を胸のあたりにそっと立てて無言のあいさつをするだけだ。辺見庸は、顔のない大きな男に顔の存在理由をしつこく自問させる。

大きな男にはまるで抉(えぐ)るか鋳(い)つぶすかしたように、顔がなかった。顔は赤黒い岩肌のような肉質を残して陥没した一枚の影であり、その影のうえに大きなガーゼとマスクをあてていた。逆にいえば、マスクの下は、見る者がそうしようと思えば、いかようにも想像できた。ない顔の影の空洞に想像の好みの顔を埋めてみたり。大きな男も見る者からそうされていることを先刻承知しているようすだった。興味深いことは、ない顔はある顔よりもときに表情ゆたかなのであった。(中略)あのころなにかを「見る」といえば、対象は主に自分の躰の暗がりにくぐもっている自分の内奥の貌だったのであり、躰の外の景色はどんなに意味ありげでも私にとって夢のなかで眼をかすめていくとりとめないもうひとつの夢のようだったのだ。(中略)私たちの眼は躰の内側にぐいぐいめりこんで、それぞれおのれの肉の裏の貌をにらんでいたようであった。(中略)一方、右隣の大きな男の内側から波動でときおり私に伝わってきたのは黯然(あんぜん)としたとある洞窟の像であった。大きな男はその洞窟の湿った暗がりに疲れきってひとり倒れ伏している。洞窟は自己存在を内に内にと凹ませ、すぼませていったすえの場所であると思われた。大きな男には依然顔というものがなかった。顔のない顔のまま自分の洞窟に横たわっていた。男のつぶやきが聞こえてくる。「この顔は、なぜ顔でなくてはならないのだ。なぜ人はなによりもまず顔を見ようとするのだ。存在のなかでもっとも存在をうらぎる顔というものを存在の証(あかし)とするのはなぜだ。ない顔に想像の顔をかぶせてまで顔をつくろうとするのはどうしてなのだ……」臓腑に響く低音であった。古楽器の絃を指で弾いたりボーイングでうねらせたりしているような、尾を引く声。「顔がたんに凹みや穴であってはだめなのか。顔を躰の断面や断層ととらえないのはなぜだ。なぜだ。顔を俺の開口部とみとめないのはどうしてか。顔が顔でないことをひどい辱(はずかし)めととらえるのはなぜだ。なぜだろう。神の顔はどうして、ひとつの黒く醜い陥没面ではないのだ。どうしてなのだ。神の顔はなぜに、想像のすべてを封じ、異なった形姿をさげすむもととなった月並みの人の顔なのか……」(『美と破局』145頁〜146頁)


顔に関する常識をそれこそ抉り、鋳つぶすかのような自問である。「顔のない顔」、「神の顔」という一見矛盾した表現のなかに、顔の<真理>が一瞬垣間見える。そのような真理を、150年余前にソローは「揮発性の真理」と呼んだ。

われわれの言葉に含まれる揮発性の真理は、残留物となっている言説の未熟さをたえず暴露しつづけなくてはならない。言葉の真理はたちまち昇天(translated)し、その文字の記念碑だけが残る。(飯田実訳、岩波文庫版『森の生活』278頁)

The volatile truth of our words should continually betray the inadequacy of the residual statement. Their truth is instantly translated; its literal monument alone remains. (Henry David Thoreau: A Week on the Concord and Merrimack Rivers; Walden; or Life in the Woods; The Meine Woods; Cape Cod, The Library of America, 1985, pp.580–581)


また、<野生>を追究したソローは、人体、とりわけ手足や頭(顔)の形態的特徴をも徹底的にいわば「野生の相」において描写した。

 人間とは、溶けつつある粘土のかたまりにほかならないのではあるまいか? 人間の母指丘(三上注:母指球? 手のひらのうち親指側の膨らみのこと)は凝固した一滴の滴にすぎない。手足の指は人体のかたまりが溶けて流れ出し、先端まで達したものである。いまより快適な空のもとでは、人体ははたしてどこまでひろがり、流れ出て、その結果どうなるかをだれが知ろう? 手とは、裂片(lobes)と葉脈(veins)のある、ひろげたシュロ [訳注:palm「掌(てのひら)」の意味にかけている] の葉のことではあるまいか? 空想をたくましくするなら、耳は頭部の側面に生えている地衣植物(umbilicaria)であり、そこから耳たぶ(lobe)、つまり水滴が垂れさがっているのだと考えられよう。唇(ラテン語labium つまり「唇」は、「すべり落ちる」を意味する labor からきているのではあるまいか?)は、洞穴のような口の上下に重なる(lap)か、垂れさがる(lapse)かしている。鼻は明らかに凝固した滴、つまり鍾乳石である。顎はさらに大きな滴であり、いわば顔が流れ落ちて合流したものだ。頬はひたいから顔の谷間に地すべりが起きた際、それが頬骨にぶつかってひろがった跡である。植物の葉の丸みを帯びた裂片も、そのひとつひとつが、いまは道草を食っている、厚ぼったい大小の滴である。裂片は葉の指というわけだ。その葉は裂片の数と同じだけいろいろな方向に流れようとしており、さらに高い気温か快適な気候の影響を受けていたならば、もっと遠くまで流れていたことであろう。(飯田実訳、岩波文庫版『森の生活』245頁〜246頁)

What is man but a mass of thawing clay? The ball of the human finger is but a drop congealed. The fingers and toes flow to their extent from the thawing mass of the body. Who knows what the human body would expand and flow out to under a more genial heaven? Is not the hand a spreading palm leaf with its lobes and veins? The ear may be regarded, fancifully, as a lichen, umbilicaria, on the side of the head, with its lobe or drop. The lip (labium, from labor (?)) laps or lapses from the sides of the cavernous mouth. The nose is a manifest congealed drop or stalactite. The chin is a still large drop, the confluent dripping of the face. The cheeks are a slide from the brows into the valley of the face, opposed and diffused by the cheek bones. Each rounded lobe of the vegetable leaf, too, is a thick and now loitering drop, larger or smaller; the lobes are the fingers of the leaf; and as many lobes as it has, in so many directions it tends to flow, and more heat or other genial influences would have cause it to flow yet farther. (Henry David Thoreau: A Week on the Concord and Merrimack Rivers; Walden; or Life in the Woods; The Meine Woods; Cape Cod, The Library of America, 1985, pp.567–568)


このようなある意味で グロテスクな描写ですら、彼にとってはまだ存分に、つまり<野生>がそうであるようには、「度を–超して(extra-vagant)」はいなかった。

私はむしろ、自分の表現が、まだ存分に度を–超して(extra-vagant)いないのではないか,自分が確信を持つにいたった真理にふさわしいほど、日常生活の狭い限界を乗り越えてはるか遠くまでさまよい出てはいないのではないか、といった点がひどく気になっているのだ。度を–超すこと! それは人間がどの程度囲いこまれているかによってきまる。(飯田実訳、岩波文庫版『森の生活』277頁)

I fear chiefly lest my expression may not be extra- vagant enough, may not wander far enough beyond the narrow limits of my daily experience, so as to be adequate to the truth of which I have been convinced. Extra vagance! it depends on how you are yarded. (Henry David Thoreau: A Week on the Concord and Merrimack Rivers; Walden; or Life in the Woods; The Meine Woods; Cape Cod, The Library of America, 1985, pp.580)