人間の希望


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1996年1月、徐京植(ソ・キョンシク)さんは真冬のイタリアにいた。

 私の父母はいずれも、1920年代に植民地支配下の朝鮮から幼くして日本に流れてきた在日一世である。私は解放後の1951年、京都市で生まれた。尹東柱(ユン・ドンジュ)は自らの言葉である朝鮮語を守って命を落としたが、私はあらかじめ自らの言葉を奪われたまま、支配者の言葉である日本語を母語として育ったのだ。
 母は1980年に、父はその三年後の1983年に、相次いで世を去ったのだが、長く暮らした京都市の郊外に両親を葬った後、私は世界の諸国を歩きまわるようになった。旅の目的は多くの場合、美術館や古い教会で絵を見てまわることだが、いつの頃からか、事情が許す限り墓地に立ち寄り、有名無名、さまざまな死者たちの墓の前に立つことが習いとなった。
 私がいつも引き寄せられるのは、帝国主義、植民地支配、世界戦争……二十世紀の無慈悲な歴史に追い立てられ、故郷や家族から引き剥がされ、根こぎにされた死者たちの墓である。さまざまな墓の前で、私は、死者たちの声が聞こえてきはせぬかと耳を傾けてみる。だが、死者たちは何も語らない。墓は無言である。
 今回は、プリーモ・レーヴィ(Primo Levi, 1919–1987)という人物の墓を目指して、ここまでやって来たのである。(徐京植プリーモ・レーヴィへの旅』朝日新聞社、1999年、13頁〜14頁)


そんな徐京植(ソ・キョンシク)さんは二人の兄がファシズムによって殺されかけた経験をもつ。

 1980年の春、私の兄二人は韓国で九年目の獄中生活を過ごしていた。そして私はといえば、京都市内の病院で毎日、母が刻々と死にゆくのをなすところもなく見つめていた。
 私たち兄弟はみな日本の京都に生まれた在日朝鮮人二世だが、兄たちはそれぞれ1967年と69年とに韓国に「母国留学」していた。植民地支配のためにあらかじめ奪われた自分たちの言語や文化を取り戻し、祖国の人々との断たれた絆を回復しようとする試みであった。
 兄のひとり徐勝(ソ・スン)はソウル大学の大学院で社会学を、もうひとりの兄徐俊植(ソ・ジュンシク)は同じソウル大学の法学部で法律を学んでいたのだが、憲法を改定してまで三選を目指した朴正煕(パク・チョンヒ)大統領と、これを阻止しようとする野党候補、金大中(キム・デジュン)とが争った1971年の大統領選挙直前に、「学園に浸透して朴三選阻止運動を背後操縦した『北』のスパイ」であるとして検挙された。
 事件のセンセーショナルな発表は、たしかに、昂揚しつつあった学生運動に冷水を浴びせる効果を発揮した。徐勝は顔面と上半身に瀕死の大火傷を負い、包帯だらけの無惨な姿で法廷に現われた。陸軍保安司令部での取調中に友人たちの名前をいえと拷問を受け、拷問に屈して学生運動に打撃を与える結果を招くことを避けるため、すきをみて焼身自殺をはかったのである。
 かたちばかりの裁判の結果、徐勝には無期懲役、徐俊植には懲役七年が宣告された。(同書104頁〜105頁)


その後長期にわたって徐京植(ソ・キョンシク)さんは深刻な自己分裂と根深い恥辱感に苛まれる。それを耐え忍ぶことができたのはプリーモ・レーヴィというアウシュヴィッツを生き延びた「人間」の生存ぎりぎりの物語が存在するお陰だった。

 私の兄たちや同胞の多くが「むこう側」で試練に遭っているとき、私自身は獄外という意味でも、日本という意味でも、つねに「こちら側」に身を置いていた。私が彼らであってもよかったのだ。実際、私自身が投獄されることは、いくらでもありえた。私も大学を出れば韓国に母国留学するつもりだったのだ。いや、そもそも解放後、父が日本に残らず祖国に帰還していたら、私は韓国で生まれることになっていただろう。私が「こちら側」にいたのは偶然にすぎないのである。
 私はその偶然の幸運を後ろめたく感じていた。働くまねごとをしたり、本を読んだり、女性を好きになったり、たまには友人と酒を飲んだり、要するに「こちら側」のありきたりな日常を送っていながらも、心はいつも「むこう側」の濃い影に覆われていた。それがかりに自分の兄弟でなかったとしても、誰かが時々刻々拷問されているというのに、仕事や趣味、食事やセックス、つまり日常の生活にどんな意味や重要性があるというのか……。
 私という存在は「むこう側」と「こちら側」とに真っ二つに引き裂かれていた。私には「こちら側」の世界は安っぽいつくり物のようにしか感じられなかった。「むこう側」にこそ人生の真実があるのだ。自分も「むこう側」に行くべきなのだ。そこでたとえどんな経験をすることになろうとも、それだけが本当に生きる途なのだ。そういう自分の内面の声に反論することができず、ずるずると「こちら側」に居続けている自分を恥じていた。
「我々の時代には、地獄とはこうなのだ……」
 あの頃の私は、プリーモ・レーヴィの言葉をまるで聖句か呪文のように心で唱えながら、せめて「むこう側」への想像力だけは失うまいと念じ続けていたのである。(同書112頁〜113頁)

 プリーモ・レーヴィは『神曲』を暗誦して囚人仲間を励ました。オデュッセウスを想起することで苦難に耐えた。「体験し、耐え忍んだことを語るために生きのびるのだ、というはっきりとした意志」が彼を支えた。
 私自身も、ある意味ではそうだった。私の場合、苦痛を受けているのが私自身ではなかったという点では、大きな違いはあるのだが。
 大学三年生になったばかりの春、新聞の報道で兄たちの逮捕を知った時、裁判の傍聴に韓国へ出掛けた両親が帰宅するなり、「あの子、焼け焦げて耳もあらへん」と床を叩いて号泣した時。兄たちが拷問を受けているというのになすすべもなかった時。延々と長期化するハンストに兄の死を覚悟せざるをえなかった、あの時……。拷問を受けていたのは私ではなかった。死の鉤爪にとらえられようとしていたのは私自身ではなかった。だが、暴力と死の生々しい気配が私の身辺を満たしていた。最も凄惨な、最も救いのない破局がいまにも襲うことをつねに思い描きながら、息を詰めるように一日一日をやり過ごしていた。空気の薄い地下室に放り込まれたような日々が十年、十五年と続いた。
 あの日々、私は、両目をしっかりと開けて運命の成り行きを見届けることを、繰り返し自分に命じていた。「殺された者たちの運命について後から語る」ために、である。オデュッセウスの物語、そしてプリーモ・レーヴィの物語が、私にとって、あの日々を耐えるための規範となったのだ。
 それが、「グロテスクな誤解」だったというのか?(同書200頁〜201頁)


ところが、レーヴィは「自殺」したという報によって徐京植(ソ・キョンシク)さんが依拠していた規範的な物語は破綻したかに思われた。実際には、そんなに単純明快な話ではなかった、と。

 「人間にはこんなことまではできないだろう」という通念、「人間ならここまで堕ちないはずだ」という期待、それらが苦もなく裏切られた場所がアウシュビッツだった。そこは、「人間」という尺度が完膚なきまでに打ち砕かれた逆ユートピアであった。
 生き残ったごく少数の人々は「強制収容所の地獄でさえ、滅ぼすことができなかった人間性」の証人であり、それ故に、彼ら自身が「アウシュビッツ以降」の時代における「人間」の尺度でもあるのだ。彼らは地上に現存した逆ユートピアの生き証人であるだけでなく、「人間」や「文明」といった観念が瓦礫となった後に、再び「人間」という尺度を再建する役割を負わされた人々でもある。
 私にとってプリーモ・レーヴィは、「人間」の尺度だった。いわば、彼こそがオデュッセウスだった。彼を見よ。人は逆ユートピアを生きのび、帰還して証言することができる。そして、「人間」の価値をいっそう普遍的なものに高めるために何ごとかをなすことができるのだ。彼がそうであったように、当時獄中にあった私の兄弟にも、ひいては私自身にも、いつの日か人間界に生還して証言する日が来るに違いない。……
 かつての私は、そう考えていた。この考えは「単純明快」すぎたのだろうか?(同書124頁〜125頁)

 プリーモ・レーヴィが自殺しなかったら、すべてが単純明快であったろう。
 人生は、私たち一人一人によってではなく、アウシュヴィッツの生き残りであるレーヴィによって肯定されているのだ。あのような経験をした人が、なお人生を肯定している。そうである以上、私たちがあらためて何を悩む必要があろうか……。ところが、その彼が、私たちを置き去りにしてこの世から消えてしまったのである。(同書143頁〜144頁)

 プリーモ・レーヴィは私たちの未来のための証人だった。それなのに、「こちら側」の世界、私たちの世界は証人の声に耳を貸さないばかりか、証人を敬意をもって遇するすべすら知らないのである。
 プリーモ・レーヴィが自殺しなかったならば、すべてが単純明快であっただろう。苦難に対する人間性の勝利と救済の物語、オデュッセウスの凱旋の物語。……私たちのほとんどは自らの浅薄さと弱さのゆえに、その単純明快さにすがりつこうとする。だが、薄暗い宙空に身を投じたプリーモ・レーヴィは、自分自身の肉体を石の床に打ちつけることで、私たちの浅薄さを粉々に砕いたのだ。
 冷血や残酷は、いまも世界を覆っている。「人間という尺度」は破壊されたままだ。アウシュヴィッツ以降、私たち「人間」は生還の期し難い「オデュッセウスの航海」に投げ出されてしまったのだ。大海原は荒れて暗く、水先案内人もなく羅針盤もないままに、航海はあてどなく続いている。(同書223頁)


ところで、レーヴィの転落死は「自殺」ではなかった可能性がある。*1 しかし、もしかりにレーヴィは自殺ではなかったとしても、徐京植(ソ・キョンシク)さんの次のような主張の根拠はいささかも揺るがない。というのは、いずれにせよ、「あちら側」を生んだのは「こちら側」だからである。

グロテスクなのは「こちら側」である。(同書204頁)


そもそも世界は、そして私たち一人一人も、白と黒に、あるいは善と悪にはっきりと塗り分けられるわけではない。むしろ灰色の中に黒点が死斑のように広がっていると言えるかもしれない。レーヴィは「あちら側」から「こちら側」に生還、帰還したと思ったのもつかの間、「こちら側」はすでにかつての「こちら側」ではありえず、しかも実は「こちら側」は「あちら側」の温床であることに気づかざるをえなかっただろう。そして「あちら側」でも「こちら側」でもない言わば第三の<どこでもない場処>で語り続けることに賭けたに違いない。途方に暮れることがあったにしてもである。


思うに、人間は際限なく堕落しうる存在であることを知りうること、そして「こちら側」がそもそも無垢ではありえずむしろ「グロテスク」であることを知りうること、そのように知りうる場処、語りうる場処、<どこでもない場処>、つまりは「未来」に立ちうることこそが人間の希望なのではないか。プリーモ・レーヴィは、そして盟友のリゴーニ・ステルン(Mario Rigoni Stern, 1921–2008)も、死ぬまでそのような人間の希望を語り続けたのだと思う。


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*1:死の前年にプリーモ・レーヴィに「最後のインタビュー」を行ったリーザ・ソーディは次のように述べている。「我々の会見のたった九カ月後にレーヴィが階段の吹き抜けに落ちた時、世界中は驚きを隠せなかった。警察は自殺と断定したが、彼を知っていた者の多くはこの見方を受け入れなかった。いやそれどころかはっきりと異を唱え続けている。私の記憶ではあの階段の手摺りはとても低かったし、レーヴィがとても生き生きと熱く語ってくれたのを覚えている。彼を知っていた者は皆、彼が派手な行為は嫌いで絶対にしなかったことを指摘し、最近小さな手術を受けたレーヴィのことだから、気分が悪くなり目眩いがして、直前に郵便を配達して来た管理人を呼ぼうとして身を乗り出してバランスを失い落ちたのではないかと考えている。私はこれが真相だと思う」(マルコ・ベルポリーティ編、多木陽介訳『プリーモ・レーヴィは語る』青土社、2002年、290頁)