沈黙のために

死のために生き、沈黙のために語りつづけることは矛盾ではない。

 私たちにとって沈黙を解釈しようとしても無駄である。沈黙は私たちの言葉になり得ない。六千年間、人々は各人なりのたいへんな忠実さで、沈黙を翻訳してきた。にもかかわらず、沈黙は内容の分かる書物にはほとんどならない。人は、沈黙が自分の言いなりになり、いつかは沈黙を究明し尽くすと考えながら、いっとき確信して走り続ける。しかしその人も、最後は沈黙せねばならず、彼がなんと勇敢に始めたのかということだけが語られる。というのも最後に彼が沈黙の中へと姿を消すとき、語られたものと語られなかったものの不釣り合いは非常に大きいので、語られたものは彼の消えた表面の泡にほかならないように思えるからである。だが、私たちは中国のサンショクツバメのように泡で私たちの巣を被うことを続けるのだろう。そうしたものも、海岸のそばに住んでいる者にとってはいつの日か生命の糧であるかもしれない。(ヘンリー・デイヴィッド・ソロー著、山口晃訳『コンコード川とメリマック川の一週間』448頁)

 死が生の完遂であり、生に形と価値とを与えるものであり、生の円環を閉じるものであるのと同様に、沈黙は言語と意識との至高の到達である。ひとが言う、あるいは書くすべてのことは、知っているすべてのことは、そのために、まさにそのためにあるのだ------沈黙のために。(ル・クレジオ著、豊崎光一訳『物質的恍惚』349頁〜350頁)