報道と現実


朝日新聞(夕刊)2010年8月27日

「鼻や蹄から泡や液や血が噴出し、悶え苦しむ。豚舎のあちこちには抜け落ちた血だらけの蹄が散乱していました。それでも子豚は足を引きずりながら乳を求める。母豚の乳房も腫れあがっていたが痛みに耐えて子に乳を与えた。だがその生きようとする本能も殺処分の前では無意味で、親子もろとも次々と大型のダンプに詰め込まれ、大きなブルーシートがかぶされ、炭酸ガスが注入される。たくさんの悲鳴ととともにダンプが左右に揺れていました」


東国原宮崎県知事による口蹄疫終息宣言を報せる記事が掲載された27日の夕刊に、まるでそれを狙い撃ちするかのように藤原新也の「口蹄疫の現実」と題した文章が載った。口蹄疫に関する報道の言葉すべてを切り裂くような口蹄疫の現実、すなわち「動物が悶え苦しむ現場や殺す現場」を垣間見せてくれる貴重な文章だった。藤原新也がそのような現実を知ることができたのは、「殺処分」で8200頭もの豚を殺さざるをえなかった日高さんがたまたま藤原新也の本の読者だったからと書かれている。それは日高青年が藤原新也の言葉を通じて藤原新也という個人を信頼していたということにほかならない。信じ難い話だが、日高青年は一度は地方TV局からカメラを渡されてその苦しみの場面を撮って渡したにもかかわらず、残酷という理由で放映されなかったという。その一件もあって、おそらく日高さんは報道機関を信用しなくなったのだろう。「藤原さんだから言いますけど」と日高さんは重い口を開いてくれたという。口蹄疫に関する報道においては「殺処分」という事務用語がその実態を薄めたと藤原は書いている。口蹄疫に限らず、マスコミの報道がそのような官僚的な用語とレトリックによって残酷な〈現実〉を隠蔽する結果を招いている場合は少なくない。そんななかで一人の写真家であり作家である藤原新也がその現実に接近し日高さんから貴重な〈証言〉を得ることができた。皮肉なことに新聞は報道のリアリティを確保するために藤原新也のような有能な記者を必要としたように見えてしまう。このような新聞上での言葉のリアリティの落差を見せつける光景こそ、紙媒体/電子媒体の議論を吹き飛ばしてしまうほどの、報道媒体としての存在理由を根底から揺るがす問題にはならないらしいことが不思議である。