写真という滓

誰も知らない小さな空間にこっそりと入り込む。風に激しく揺れる相手を前に小刻みに震えるこの身体に連動したカメラのレンズは目まぐるしく変化しつづける世界を捉え続ける。動画撮影に切り替えたい欲望を抑えて、何回も何回もシャッターを切る。その間呼吸は止まっている。それでもこの身体は静止してくれない。もっと体幹を鍛えなければとちらりと思う。結局、写真になったイメージはその滓みたいなものだが、中にはなんとか変化と運動の痕跡をとどめるものもある。それにしても、接近すればするほど、対象は曖昧になり、激しく変化する色と光の知覚に解体する。存在とは知覚の束である。かつてそんなバカなと軽視し通り過ぎた命題がある説得力をもって浮んでくる。だが、やはりどんなに知覚を重ねても、ついに存在を捉えることはできない。遠い昔にそこから永遠に隔てられた微かな記憶の感触が不思議な痛みをもたらす。そして不可能と知りつつも、そこへ帰還しようとする気持ちが無謀な知覚を企てる。