本書は、Robert Doisneau.– A l'imparfait de l'objectif, sourvenirs et portraits の全訳である。
訳者の堀江敏幸氏は、原書の表題に使われた《imparfait》(不完全な、半過去形)に写真家ドアノーの「本質」を見ている。
…表題の《imparfait》に、なかなか焦点を結ばずあちらへ行きこちらへ行く語りの「不完全さ」も掛けられているのではないか、と勘ぐりたくなってくる…
(中略)
二行に分たれた扉の詩句で明らかにされているとおり、書名はジャック・プレヴェールの「詩行」から取られている。
きみが《写真を撮る》って動詞を活用するときは、
いつだってレンズの半過去形でなんだ。
実際には詩ではなく、この稀有な詩人を被写体とした写真集『ジャック・プレヴェール通り』(Rue Jacques Prévert)の序文の末尾に置かれた一節で、それを詩のように加工したものだ。言葉遊びの天才が力を抜いてあっさり書き上げた、みごとに訳出不可能な表現。それでいて写真家ドアノーの本質をこれ以上ないほど正確に射貫いている手品のような言葉。先の《imparfait》には、フランス語文法の用語で、過去における持続や習慣を表現する際の、半過去形と呼ばれる時制の意味がある。たとえば「学生の頃、よくこの映画館に通っていた」という文章があったとすると、映画館に行き、映画を観て、帰ってくるまでの完結した行為が反復されることで回数の特定が不可能になり、行為はひとつの習慣となって明確な終わりがなくなる。つまり、限られた時間の幅のなかでは、行為は完結していないと見なされる。そういうときに用いられるのが半過去形で、《photographier》(写真を撮る)という基本的な活用の動詞にも当然この半過去形の語尾変化があり、プレヴェールはそこに目をつけて、双方の文脈をたくみに掛け合わせたのである。
「レンズの半過去形で–––ロベール・ドアノー 訳者解説」から
なるほど。ただし、だれにとっても自伝的な語りは不完全であり、未来さえ単純な未来形ではありえず、本質的に半過去形である。つまり、限られた時間の幅のなかでは、人生は完結しない。
31話からなる本書の最終話「写真−批評」の終わりはいみじくも次のような印象的な問いで結ばれている。
あれもこれも、じつにありがたいことだ。しかし、あいもかわらず、おなじ問いがしつこくこちらを悩ませる。私の喜びを台なしにしかねない問いは残るのだ。アラゴー通りのすばらしいマロニエの木々が花咲くのを、私はいったい、あと何度目にすることができるだろうか、という問いが。
ドアノーはいつも末期の眼で懐深く人生を見ていたに違いない。