ミルチャ・エリアーデ(Mircea Eliade, 1907–1986)の短編小説「若さなき若さ」(原題 Tinerețe fără de tinerețe, 1976)はアルツハイマーと診断されたことを苦に自殺を決意した老言語学者が見た夢と現(うつつ)の境界が曖昧な物語である。フランシス・フォード・コッポラ(Francis Ford Coppola, b.1939)が映画化したことでも知られる。その映画 Youth Without Youth(2007)は日本では『コッポラの胡蝶の夢』という邦題で公開された。たしかに老言語学者が荘子の「胡蝶の夢」について語る場面が映画の終わり近くにあるが、原作の最終章ではその場面の少し後に「荘子」の名前さえ思い出せなくなる場面が象徴的に描かれている。
映画は原作をかなり単純化した上で脚色した内容である。原作では明記されている老言語学者がアルツハイマーと診断された事実には触れず、従って失われつつある記憶と夢の内容との関係はまったく問われず、ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』をめぐる、まさに夢の考察に欠かせない「目覚め」をめぐるアイルランド旅行はまるごと省かれ、原作では声として登場する「分身」(訳者の住谷春也氏の解題によれば、エリアーデはこの「分身」の扱いにずいぶん苦労したらしい)が映画では主人公と瓜二つの姿であっさり登場してしまう。原作に対するコッポラの割り切った姿勢は、夢の割り切れない大事な部分をずいぶんと取り逃がしているような気がする。
その点で、夢を住処としたようなところのある作家の割り切れない言葉を思い出していた。
四月五日
夢にはことばが強くあらわれるものと、映像が勝って展開するものとがあるように思う。前者は夢を見ている本人のほかにもうひとりの分身が居て、夢の筋を誰にともなく説ききかせている感じが濃厚である。映像的なものはその説話者の影がうすくなり夢の画面の中の事件は映像をかさねつつ進行する。目がさめてから、夢は記憶に残ることをおそれるかのように、急速に意識の底に引っこむ姿勢を示すけれど、その場合映像的なものの方が逃げ足は早いのではなかろうか。説話的なものの方は、その誰とも知れぬ話し手の声の名残りが目ざめたあとまで耳のあたりになまなましく残っている。島尾敏雄『日の移ろい』中公文庫、22頁、asin:4122016665