記憶とは観察力である:奄美自由大学体験記4

美崎薫さんが「奄美の精霊の悪戯:奄美自由大学体験記1」にコメントしてくださったように、体験の内容をできるだけあるがままにしっかりと記憶にとどめる(いつでも呼び出せるようにしておく)ことは、自分が生きる世界を豊かにする正しい方法である。そのために人はさまざまな記録の道具を発明してきたのではないかとさえ考えたくなる。

美崎さんのフィレンツェ体験には遠く及ばない、私の奄美体験を象徴する一日300枚の写真でも、その日の内に数回見ることを続けていると、体験の質が明らかに変っていった。確かに「世界がなんというか、二重構造みたいに見えてくる」。あるいは部分的には三重、四重にさえ見えてくる。それが日を経るごとにさらに重なってゆく。写真という記録による追体験をできるだけ、最初の体験のリアルタイムに近づけていくと、体験の内容はより確実に記憶され、それが後続の観察を深める働きをすることを私は実感した。美崎さんが私の奄美体験の意義を先回りして書いてくれたように、「記憶とは観察力の別名」なのだ。

無力であっても、ひとつひとつ世界を知覚化すること、対象化すること、見つめることの意義。
あるいは、写真と言葉を使えば使うほど、現実の奥深さを知ります。
世界を抱きしめたいと思うのは、ほんとに、そういうときですね。
記憶とは観察力の別名なのかもしれません。

しかし、美崎さんを先回りできるかもしれないと思って、最後に私は次のように書いた。

もしかしたら、カメラもメモも使わずに、追体験をほぼリアルタイムに瞬時に何重にも襲(かさ)ねることができるような時が来るかもしれないとも思ったりします。

これを書きながら私が想起していたのは、私の1000枚のスライドショーに何度も登場する三線を弾き続ける今福龍太さんの姿であり、いつも何かに耳を澄ましている吉増剛造さんの姿だった。彼らは体験がいつもほとんどリアルタイムで何重もの追体験を伴うような、高速回転している独楽のような、一見あたかも静止しているかのような「静かで複雑な」印象を私に与える。