錯誤の方法

今福龍太さんによる「群島-世界論」(雑誌『すばる』連載)は11月号ですでに第11回を迎えた。よくもこのペースでこの高密度のエクリチュールを継続できるものだ。感心する。明日の札幌大学での映画「9.11-8.15日本心中」上映会に、大浦監督と一緒に今福さんは来訪する予定で、奄美大島以来の再会が楽しみだ。昨日、チューリヒから戻ったという。

今福さんの「群島-.世界論」は私の奄美大島行きのバイブルであったが、第11回「ブラジル島、漂流」を読みながら、私は今福さんが次々と明るみに出す「私たちの新しい世界地図」のなかの「未知の群島」の姿に強く惹かれ、その記述のなかに濃い靄の向こうの「灯台の灯」を感知しながらも、私は私の難破船によるのろのろとした遠回りの航海を進めなければならないと思いを新たにする。

「ブラジル島、漂流」の中で、とりわけ眼を引いたのは、次の箇所だった。

今福さんの豊饒極まりない文体を支えるひとつの要石は「空間錯誤」であると以前から気付いていた。「時代(時間)錯誤」もペアとしてある。「錯誤」とは言え、それこそが「新しい認識」に到達するために傷つきながらも果敢にくぐり抜けなければならない穴である。

私は自分のアメリカ体験、奄美体験、そしてHASHI展体験と美崎薫さんの「記憶する住宅」体験を経ながら、次第に自分の体験の記憶世界においては「アメリカ」と「奄美大島」と「東京」、そしてもちろん「札幌」が重なりあい、共通の深層が見えてきたような気がしている。東京にいてもアメリカにいたときの空間感覚や奄美大島にいたときの島感覚、あるいは札幌、北海道での海感覚が蘇っていた。また、「時間」に関しても、過去を積極的に喚び出しながら、現在というか、その瞬間瞬間に起ること、自分の言動を観察していた。

根が怠惰なので、誇れるほどのことはできてはいないが、それでもかつてに比べれば、写真と言葉による記録、スライドショーやSmartCalendarによる想起(追体験)、書くことによる記憶の更新(追体験)をかなりまめにおこなうようになってから、空間も時間も「錯誤」されるようになった。因習の地理や因習の歴史、因習の時間を私は私のやり方でいままでの自分の体験の意味付けから引き剥がそうとしているのだと思う。

(ところで、これは脇道に逸れる余談だが、『フィネガンズ・ウェイク』はジョイスの体験の「記録」である。語彙二十万語は多いのか少ないのか、美崎薫さんなら、全然少ない、と断言するだろう。また、例えば、昨日の朝日新聞朝刊で目に留まった『書物の宇宙誌 澁澤龍彦蔵書目録』の売り文句には「澁澤龍彦が遺した蔵書1万余冊の全データと、多数の写真が織りなす空前絶後の蔵書目録。貴重な「創作ノート」はじめ、著者索引、対談、インタビューも収録」とあった。この「データ量」は多いのか少ないのか。美崎薫氏なら、圧倒的に少ない、と断言するだろう。
何を基準に「少ない」と言えるかというと、「人生の全データ」に比較してである。
もちろん、「問題」は「中身」であり「質」である、つまり「思想」だと言われるかもしれない。しかし「思想」の評価は一概にはできない。難しい。データ量の多さが無視できない「質」を感じさせることに敏感であるならば、美崎薫さんの100万件の「人生のデータ量」に震撼すべきである。その中には澁澤龍彦の蔵書を遥かに超える1万4、5千冊の全ページさえ近い将来含まれるし、近々『書物の宇宙誌 澁澤龍彦蔵書目録』も含まれるだろう。
こうなってくると、私は混乱してくるのだが、『フィネガンズ・ウェイク』の全ページ、『書物の宇宙誌 澁澤龍彦蔵書目録』の全ページをそのごく一部として含むもっとずっと巨大な記録を来る日も来る日も「見つづける」ことで「見えて来る」ものも「思想」と言えるのではないか。)