モノが多重に見える:奄美自由大学体験記6

前々エントリー「記憶とは観察力である:奄美自由大学体験記4」への美崎さんのコメントにはちゃんと応答しなければ、と感じたいくつかの論点があった。そのうちの一つは、実際に「モノが多重に見える」経験と、記録ツールのサポートによって実現される「脳の機能の拡張」との関係という問題である。美崎さんは次のように書いている。

オカルトかと思っていわないでいたのですが、じつは最近、モノが多重に見えます。といっても、ちゃんと見ようとするとやっぱり見えないので、それにそうとうするものをSmartCalendarなどで確かめるわけですが、確実にSmartCalendarや記憶の訓練は、ある種の脳の拡張の訓練になるように感じます。
三上さんがいきなりそこに達したのだとしたら、やはりそれはこれまでの蓄積がものを言っているのだろうなという気がします。
もし、そういうところ(脳の拡張)の機能を、SmartCalendarで立証できたら、また違う感じになるかなと思ってます。

「モノが多重に見える」状態のイメージは、多重露出の写真を思い浮かべればいいと思う。はからずも、今回の奄美自由大学で色々と話す機会のあった、吉増剛造さんや、KOSACこと濱田康作さんは、「見る」という経験の本質をあらわにしようとするかのように、多重露出の写真を撮っている。それらのmultiplex imposedな写真を「見る」という経験は、普通にモノを見ること自体に含まれる「意味」というか「文脈」を見るようなもので、純粋な(?)視覚ではない、厚みを帯びた視覚の経験のように思う。だから、「ちゃんと見ようとするとやっぱり見えな」くなる。

実は、奄美大島への道連れとして、書き忘れたモノがもうひとつあった。それも吉田修一さんのポルトガル紀行と同じくJALの機内誌SKYWARDに掲載されていた「関西大学 スカイセミナー Vol 49 共感覚(色聴)」から拾い上げたテーマだった。それは「ハ長調ヘ長調などの音楽の調性に色を感じる『色聴』」をはじめとするいわゆる「共感覚」現象を研究している関西大学の長田典子さんのインタビュー記事だった。そこで直接語られていた興味深い事実は、生後三ヶ月までの赤ちゃんの脳では聴覚野と視覚野の間に「経路」があるが、その後の成長過程で「刈り込まれる」(凄い表現!専門的には「アポトーシス」と呼ばれる細胞の「自死」のこと。神経細胞の自殺。)ということ、そして、まれに、2000人に1人くらいの割合で大人になっても聴覚と視覚が「繋がっている」人がいるということだった。面白い、と思った。おそらく他の感覚・知覚との間にもそのような「経路」があっただろうし、もしかしたら、なんらかの訓練によって、そのような経路に相当する繋がりを復活させることができるのではないか、と想像したのだった。

奄美自由大学では、フランスから飛んできた詩人の方や作曲家の方と、その話題で盛り上がったことを思い出した。プルーストの記憶の問題、幽霊の話す言葉は何語か?という問題、音楽療法における共感覚や記憶想起の問題などについて、巡礼の道行きのなかで、真剣に話し合ったりしたのだった。

美崎さんのコメントを読んだとき、そのことを想起した。デジカメでSKYWARDの目に留まったページを記録しておいてよかった。

正確には「モノが多重に見える」知覚経験は「共感覚」とは言えないが、少なくとも、普通は意識されない記憶アイテムの連結というか重層化が、常識を超えたスライドショー経験を続けたりすると、起るのだろう。

私の場合、まだ「モノが多重に見える」わけではないが、いままでかけ離れていた別々の「見え」が接近しつつあるのは実感していて、見知った場所を歩いていても奇妙な浮遊感がある。重なるのは時間の問題のような気はする。でも、だから?要は、私がやっていることは、美崎さんが繰り返し強調するように、現実の奥深さを知るための、ひとつの回り道、でも少なくとも「達人」ではない私にとっては、もっと近い道は思いつけない、したがって一番の近道でもあるような、避けて通れない道、面白い実験だと感じている。