珊瑚と宝貝、島尾敏雄さんの眼:奄美自由大学体験記9

笠利(かさり)や国直(くになお)の浜に打ち寄せられた珊瑚の死骸や宝貝を拾って、小さなビニール袋に大切に仕舞って、札幌に持ち帰った。珊瑚の死骸は見ようによってはグロテクスな、殆ど人骨の一部のようでもある。家族は気持ち悪がっている。二週間前の叔父の葬儀の収骨の場面を思い出させる。宝貝は可愛らしい生まれたばかりの赤ちゃんが湛える、なんていうか、その存在全体が放つクオリティを彷彿とさせる。それらを私は机上の『島尾敏雄非小説集1南島篇1』の箱の上に置いて、いつでも視界の片隅に入るように、なぜか、そうしている。

名瀬の古書店奄美庵」で出会ってしまった『島尾敏雄非小説集』全6巻。箱は第1巻のみ。今私の机の上ではその6冊が全部、開いている。第3巻までは「南島篇」、残りは「文学篇」。そして、もう一冊、今夏、石川啄木の筆跡を見るために訪れた函館、その駅前の丸井デパート地下で閉店叩き売りセール中の「いせや書房」の無料!棚で背取りした『島尾敏雄庄野潤三集』(筑摩現代文学大系78)の「島尾敏雄年譜」の昭和30年前後が開いている。

島尾敏雄さんが止む無き事情で奄美大島に移住したのが、昭和30年10月。三十八歳の時だ。ちなみに、私が生まれたのは昭和32年。私がこの世に生まれてくる前後に、島尾敏雄さんは、沖縄、奄美の島々について、非常に高密度な文章を沢山書いている。島尾さんの眼には「南島」というフレームが出来上がっていったようで、それはその後「ヤポネシア」、「琉球弧」といった、より大きなフレームの中に組み入れられて行くことになるようだ。そして、さらに島尾さんの眼のフレームは、アジア、アメリカ、ハワイ、ロシア、東欧、と実際に見聞しながら、ほとんど地球を覆うスケールに拡大していったようだ。面白い。

私の奄美大島体験の一番大きなガイドは、もちろん、今福龍太さんの「眼」であり、その背後に見え隠れする吉増剛造さんの「眼」であり、さらにその背後に感じる島尾敏雄さんの「眼」。そこにル・クレジオの「眼」が重なり、濱田康作さんの「眼」も重なっていて、まるで自分の眼が「トンボの眼」になったような感覚を覚えていた。

自分の奄美大島体験を追体験するために、私は実際に奄美大島に生活した島尾敏雄さんの「眼」を借りようとしていた。

島尾敏雄非小説集』全6巻はどの巻も、目次を眺めるだけで、何かイメージに近いものが浮かんでくるような、魅力的なものだ。全6巻の目次を丹念に追っていると、無知な私にとっては「意外な」発見があった。例えば、第5巻には「フェリーニのおののき」という、昭和36年に発表された、思わず読まずにはいられなくなるような題名の文章が置かれている。わずか二頁余りの短い文章だが、タイトルに惹かれてすぐ読んだ私は驚いた。恐ろしいほど透徹した深い批評眼を感じた。映画『甘い生活』で描かれた「甘い生活」の裏に控える「もう一つの別の生活」へ眼を届かせる島尾敏雄さんは、フェリーニの心の底に潜む「甘さ」が臨む「深く暗く、そして『にがい』何かの気配」、「むなしさ」への「おののき」に優しく触れる。それだけではない。「自然の音響」、「数えることのできない『自然』を通じて送られてくる信号」、そのような「自然」を「はみだそうとする何か」、さらに、映画という表現メディアの持つ「危険なおとしあな」について、約半世紀前に書かれたものとは思えない、現代の映画批評文では出会ったこのとない、異常に深く鋭いコメントがさり気なく書かれている。私はそこに現れている島尾敏雄さんの「眼」こそ、私の奄美大島体験を追体験するために是非とも必要なものであり、それは少なくとも私にとっては「島尾文学」なる、ある巨大な記憶世界への「入り口」にもなるはずだと確信した。

ところで、突然思い出した。2004年のある日の早朝、サンフランシスコの市中を車で移動中、数カ所のうらぶれた街角でチカーノや黒人の老若混じった十数人の男たちの姿が眼に飛び込んで来たことがあった。おそらく日雇い労働の現場へ行く車を待っていたのだろう。彼らは一様に手持ち無沙汰に虚ろな暗い表情で静かに佇んでいた。

私はアメリカ滞在中、事ある毎に、今ここで、裸で放り出されたら、生きていけるだろうか、どうやって生きて行くだろうか、としきりにシミュレーションを繰り返していたことを思い出す。結論は、なんとか生きて行けるだろう、だったが、かりにそうして生きて行ったとして、それがどうだというのか。そもそもどうして俺はそんなことを想像しているのか、お前の根は日本にあるはずだ、それを忘れて、アメリカに根を降ろそうとでもするかのように、そんなことを考えるのは、間違っている。そんな自問自答をよく繰り返していたことを思い出す。人間にとって、本当の「根」とは何なのか。2年前に中断したままだった思考まで再開し始めた。