『bookscanner記』から、性急な私がいつも読み取ろうとしてきたのは、グーグルに関するbookscannerさんの最終的な見通しだった。bookscannerさんの細部に切り込む執拗な分析からはいつも「グーグルをアナロジーで考えてはいけないのかも」という声が聞こえてくる気がしていた。
グーグルは見えない踏み絵なのかもしれないとは以前から感じていた。グーグルに対してどんな態度を示すかが、新/旧の違いを表す。『横浜逍遥亭』の中山さんもご自身についてそう語っていたように、私のグーグル語りもまたアンビバレンツだ。自分の中に賛否両論がある。関係ないと言えば、言える面もある。でも百パーセントそうとは言い切れない。そんな歯切れの悪い姿勢を私に取らせるグーグルは、おそらく、百パーセント「新」なのだろう。普通は幾分でも「旧」を引きずるものだ。一気にすべて「新」に移行することなどは普通は不可能だ。でも、グーグルは最初からすべて「新」だった。何から何まで「普通」ではない。だから「新」を標榜しながらもどこかで「旧」を引きずる私は、煮え切らない態度になるのだと思う。
それに、そもそも仮に私がどんな「世界観」を示したとて、それはグーグルには届かない。所詮グーグルの「えさ」になるだけだ。「えさ」にすらならないか。fuzzyさんのように、それが未曾有の「インフラ」ということだ、と認識するしかないのか。
ところで、『ウェブ進化論』を読んで以来、インターネットの情報的可能性を百パーセント引き出そうとしているのがグーグルであり、グーグルが構築しつつある世界は写真も映画もテレビも本も地図も、そしてそれらを利用する人たちの時間までをも全部取り込みながら、電力が供給されなくなるまで、人類が滅びるような出来事が起るまで、休みなく進化し続ける、そんなイメージが私の中に少しずつ出来上がってきた。しかも昨日の梅田さんの報告を読んで、グーグルに関して「世界政府」という言葉がもはや冗談とは思えない現実を私は見せられたような気がした。
世界知+インフラ+ビジネス+世界政府、込みの世界観
もし、こんな化け物と「闘う」としたら、どんな戦略が考えられるのだろう。私のやっていることは一面では「輪ゴムの鉄砲」で巨大な象に挑んでいるようなものだろう。ゲリラ戦、あるいは二重スパイ作戦?いずれにせよ、闘う前に、相手をよく知らないことには、「闘い」にすらなりえない。よく知ること。しかもグーグルの場合にはあらゆる「アナロジー」を排して知らなければならない。普通は無理だ。冷静に具体的に細部から知っていくこと。bookscannerさんの作戦はそのラインで着実に進行している。
単にインターネットの「こちら側」で享受できるようになるディズニーランドのような「世界の表層」についてではなく、グーグルがインターネットの「あちら側」と「こちら側」を結んで実現しようとしている「世界全体」に関しては、梅田さん、bookscannerさんによって、グーグル自身がとんでもないスケールでそれをいきなり示しつつあることを知らされ、それに私は戸惑っているだけなのかもしれない。
突然、近親憎悪という言葉が浮かんだ。もし私が何かの間違いでグーグルの一員だったとしたら、何を見るか。何をしようとするか、と考えておかなくてはならないと感じた。一概には何も言えない荒唐無稽な仮定だが、もしかしたら、グーグルにとっての「闘い」は、私の闘いでもあるのかもしれないと微かに感じた。まだ分からない。