Elegyと墓碑銘、死者の言葉と翻訳

在野の哲学者池田晶子さんが2月23日に亡くなったことを一昨日知った。そして今日、アマゾンに注文してあった南博さんのCD「Elegy」が何かの符合のようにして届いた。

Elegy

Elegy

「Elegy」はよかった。そして南博さんのライナーノーツの文章がまたよかった。

ライナーノーツの文章は声に出して読むとそのよさがよく分かる。その素晴らしいソウルフルな文章を丸ごと引用させていただく。

「Elegy」 南博

悲しみとは何だろうか。あまりにも悲しい時、人は息を呑む。そのまま息ができなくなってしまうこともある。人間にとってメランコリーとは何だろうか。この世を構成しているもの、不条理、背理、悲しみを通り越してしまうような矛盾、当たり前のように起こる理不尽なこと、諦観、人間が背負わされた数々の苦難、これらは何のためで、誰の作為なのかと、生きていれば日々感じざるを得ない。悲しみは沈潜する。心の奥へ。心の底という場所は、すごく柔らかくできているのではないかと思う。少なくとも僕の心の奥底は、とても柔らかくできていて、悲しみがふわりとその奥底に沈潜する。それが知らぬ間にたまってくると、メランコリックな一種の雰囲気が醸造される。底知れぬ孤独を感じるのはそんな時である。

癒しとは何だろうか。「癒される」とされる音楽や、大自然に癒しを求めるなど、結構なことだが、本当にこの奥深い心の中は、無意識の部分も含め、そういうことで、本当に癒されるのだろうか。僕はそう簡単に行かないと思う。たとえそういう場所にいるあいだや音楽を聴いているあいだ癒されているような気がしていても、根本的な部分は変わらないと思う。そういう場所や音楽から離れてしまうと、いずれ癒されたという気分は元の現実に戻ってしまうのではないか。ではどうすればいいのか。己の悲しみ、孤独、不条理を正面から見据えて、それらの感情を体いっぱいで受け入れることだ。孤独も不条理も諦観も、自らがこれらのことにフェーシングしてこそ、本当の安寧、癒しが訪れるのではないだろうか。僕はそういうつもりで今回ピアノを弾いた。だから、言葉を変えれば、この演奏は、毒にもなりかねない。誰も彼もが本当の孤独や悲しみに正面切って立ち向かうことができるとも思えないし、事と次第によっては、僕だって顔をそむけることはあるだろう。しかし、僕は、ピアノという楽器を通して、今回のCDで、正面切って一番深いところにある悲しみを音に託したつもりだ。感じることのできる人が必ずいるとは限らないという、それこそある意味の諦観を、不条理を乗り越えて演奏した。

では正面切って孤独や悲しみにフェースできない人はどうすれば良いのか。日本には国教がない。社会の規律はおのずと、社会生活という表面を取り繕う事が多くなる。だが、これこそが、もっとも不条理に満ちた世界であって、社会生活の中で孤独、不条理にどれだけ我慢できるかという事が大人としての基準になる。

しかし我々は心のどこかで、聖なるものへのあこがれを抱いているのではないか。人間である以上、必ず持っているものではないだろうか。例え無宗教でも、この根源的感覚は否定し得ないだろう。なぜなら、簡単にいえば、我々は死者の言葉を聞いたことがないからである。この根源的な感覚は、正面切って悲しいことに立ち向かえない人にも、絶対存在しているはずだ。結局最後にフェースするのは死ということであるが、また不思議と、そのことを誰も知らないのである。かくいう僕も知らないのだ。何にせよ、それが聖なるものにあこがれる所以ではないだろうか。僕は今回、自らの聖へのあこがれも、ピアノの音に託したつもりだ。

21世紀という新しい時を迎えたのに、世界はまだ世紀末的混沌の中にあり、日本もその例外ではない。こまごましたことをいえば、東京の街は騒音で唸りをあげている。まずどこか静かなところで耳をすまし、そっとこのCDを聞いてほしい。あなたの中の孤独や悲しみをそっとすくいあげるように演奏しているから。

これは、ほとんど「哲学的エセー」である。人間存在の根源的な謎に直面した魂の「祈り」のエネルギー、勢いがひしひしと伝わってくる。

池田晶子さんが亡くなったことを知ったとき、実は彼女の著作の大ファンである南博さんはきっと何か書いているに違いないと思ってサイトを訪ねたら案の定書いていた。
http://www.graphic-art.com/minami/index2.html

インターネットで知った情報だが,池田さんは、死ぬ間際まで文章を書いていたということが多く語られている。僕が最近読んだ池田晶子氏の本は,情報センター出版局の「残酷人生論」であった。未来を予見したようなタイトルではないか。この本でも,死ということが,実に明晰に記されていた。同い年の僕よりも先に、その「死」を超えてしまった池田さんの胸中はいかばかりであったろうか。哲学的解釈をぬきに考えても,池田さんの安寧を望むまでだ。彼女自身,著作の中で,死は存在しないと,何度も書いているけれど。しかし、一方では,池田さんの安寧を望む反面,死ぬ直前まで書いていた文章を読みたいというある意味下品な欲望も抑えきれない。こういうことを願うこと自体、残酷人生論かもしれない。でもしかし読みたい。文筆家はこういう人生をたどらなければならない宿命があるのかもしれない。などと、自分勝手な理由をつけて,だけど読んでみたいのだ。たとえその行いが下品であろうとも。池田さんは、本当に最後まで死を恐れなかったのだろうか。ここが、文筆家と読者の残酷な関係の露出するところである。客観的に見れば,文筆業というのは因果な商売といえよう。書いた本人が追いつめられたところを,追いつめられていないていない頃の文章と照らし合わせたいという、それこさ、残酷な読者の興味を倍増することであるから。不謹慎は百も承知で,池田晶子さんの新刊を楽しみにしている僕は,はたして、サディストなのか。ええい、どうでもいい。池田晶子さんがこの世に残した文章は,一字一句にいたるまで、熟読するつもりだ。勝手な考え方かもしれないが、それが彼女に対しての最大の供養となるであろうと望みたい。

「死は存在しないと、何度も書い」た「池田さんは、本当に最後まで死を恐れなかったのだろうか。」と南博さんは「残酷」に問う。

ところで、ウェブ上には池田さんのファンの方々の追悼文が沢山見られるのだが、「哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ」を運営するmiyurinpetrusさんは3月11日のエントリー「墓碑銘(週刊新潮の「人間自身」最終回)」で、池田さんのローマのお墓ウォッチングの興味深い逸話を引用している。

池田晶子さんの週刊新潮連載の「人間自身」最終回は、「墓碑銘」という題でした。最後も、本当に池田さんらしい文章で締めくくられています。ローマで見られるという墓碑に刻まれている言葉の話のところから、少し抜粋します。

 こんな墓碑銘が刻まれているのを人は読む。「次はお前だ」。
 他人事だと思っていた死が、完全に自分のものであったことを人は嫌でも思い出すのだ。

 私は大いに笑った。
 こんな文句を自分の墓に書かせたのはどんな人物なのか。存在への畏怖に深く目覚めている人物ではないかという気がする。生きているものは必ず死ぬという当たり前の謎、謎を生者に差し出して死んだ死者は、やはり謎の中に在ることを自覚しているのである。

 それなら私はどうしよう。一生涯存在の謎を追い求め、表現しようともがいた物書きである。ならこんなのはどうだろう。「さて死んだのは誰なのか」。楽しいお墓ウォッチングで、不意打ちを喰らって考え込んでくれる人はいますかね。

南博さんにとっては、言わば哲学的師匠でもあった池田晶子さんは自分の墓碑銘を考えていた、ということである。昨年南博さんは「我々は死者の言葉を聞いたことがない」と「Elegy」のライナーノーツに書き付けた。今年2月23日に亡くなるまでの闘病中に池田晶子さんはこの「Elegy」を聴いただろうか。聴いたような気がする。そう思いたい。で、彼女は死に際に正に「死者の言葉」として墓碑銘「さて死んだのは誰なのか」を事実上読者に遺すことになった。「存在の謎」と格闘しつづけた哲学者らしい言葉ではないか。言葉は畢竟生者のためのものでしかない。だから、しかし、池田晶子さんは生者にとって本当に必要な「死者の言葉」をユーモアにくるんで「墓碑銘」として遺して逝ったのではないか。そして、私の想像の中では池田晶子さんは南博さんの「Elegy」によって「癒され」つつ他界されたような気がする。もちろん、池田晶子さんは実際には、CD「Elegy」を聴かなかったかもしれない。しかし、そうだったとしても、上のような私の想像には「意味」があると思う。

さて、南博さんの「Elegy」後の、「池田さんは、本当に最後まで死を恐れなかったのだろうか」という「残酷な」問いには、南博さん自身の死に対する恐れを感じる。

先日、その著『信頼』をめぐって取り上げたアルフォンソ・リンギスは、あくまで追いつめられた私の視点から死に対する恐れよりも深いところから湧きあがる「勇気」について書いている。

死に直面したとき、人は何を見るのだろうか。死は、個人の存在を不可逆的に消滅させ、その人をとりまく風景から見るべきものをすべて消し去るだろう。目に映るには、判然とせず、いつ果てるともない深い淵、すなわち無そのものだ。ありとあらゆる危なっかしい道の下に、手中にある、誤作動したり壊れたりしそうなありとあらゆる道具の下に、その淵が今にも大きく開きそうなのを感じる。人の存在のまさに中心である核で拍動する不安が、深い淵がぎりぎりまで迫っていることを感知する。それでも、死が迫ると、自分自身の未知の深みから勇気が湧きあがることがある。勇気は、死そのものが迫ったときに、人を勇敢かつ頭脳明晰に保つ力だ。
(13頁)

南博さんのいう「すごく柔らかくできている」「心の奥底」は容易に「底なしの孤独」になるが、それは「自分自身の未知の深み」でもあり、そこから湧きあがる「勇気」、「力」こそが人を本当に明晰に、「かしこく」する。

これはあくまで私の推測と仮説にすぎないことを断った上で、記録しておきたいことがある。池田晶子さんは、なぜ、「墓碑銘」にこだわったのか。そもそも墓碑銘とは「生者の言葉」が「死者の言葉」に翻訳される鏡のような場所だと考えることができるからではないか。そうだとすると、私たちが生前記録して死後にも残る言葉はすべて潜在的には墓碑銘のような死者の言葉であると考えを進めることもできる。「我々は死者の言葉を聞いたことはない」は「我々は生者の言葉すらちゃんと聞いてはいない」を意味しているのかもしれない。そして、特に「本」という記録はその著者が生きているか否かに関わりなく、最初から「墓碑銘」みたいなもんでしょ?と池田晶子さんは言いたかったのかもしれない。だから、「さて死んだのは誰なのか」、と。