Stationary Nomad, Nam June Paik:365Films by Jonas Mekas

ジョナス・メカスによる365日映画、4月、116日目。


Day 116: Jonas Mekas
Thursday April. 26th, 2007
7 min. 20 sec.

Remembering
Nam June Paik --
Yoko Ono performs
at the Guggenheim
Museum
.

ナム・ジュン・パイク(白南準)
追悼。
グッゲンハイム美術館
オノ・ヨーコ
のパフォーマンス。

晩年のパイク(1932-2006)の素顔。「根本的に言えばね、この世であまり悪いことをしないようにしてきたんだ。それは多分うまくいったと思うよ。」とパイク。「距離を測りながらだろう?」「ああ。」「悪いことをしないためにね。」「ああ、ああ。」

小鳥のさえずりが聞こえる会場で、ステージに大量の陶器の破片が運ばれる。その擦れ合う音が小鳥のさえずりと見事に調和する。黒のロングドレスにサングラスをかけたオノ・ヨーコが登場する。マイクの前の椅子に姿勢よく座った彼女は日本語でナム・ジュン・パイク追悼の詞を朗唱する。その第一声によって会場の空気は変わる。マイクを通して会場に響き渡る声には独特のエコーがかけられて、「シャーマン的な」効果を生む。巫女オノ・ヨーコだ。

トーザイ ナンボクー ノ カミガミー(東西南北の神々)
テンチ インヨウ ノ セイレーイ(天地陰陽の精霊)
パイク ナムジュン ノ レイコン ヲ(パイク・ナムジュンの霊魂を)
マモリ タマエー(護り給え)

オノ・ヨーコは張りつめた会場の空気を一変させるような柔和な表情で観客に向かって「サンキュー」と小声で言ってから、用意された陶器の破片の山を指差して「プリーズ」と言う。観客たちはぞくぞくとステージ傍に押し寄せ、陶器の破片を手にする。一人一片ずつ持って帰ることもパフォーマンスの一環であるようだ。

一方、オノ・ヨーコは水色の毛糸で編み物を始める。黙々と何かを編んでいる。

陶器の破片に群がる観客。中には、オノ・ヨーコにデジタル・カメラを向ける者もいる。カメラはオノ・ヨーコの手元を何度もクローズアップする。そして。こんなパフォーマンスのパンフレットが大写しになる。

冒頭のパイクの映像の続きが、スローモーションで数秒流れる。無声。そして最後に、タイプされたテロップが入る。

in this world
why do we suffer so?
life is but
the blossoming time
of the mountain cherry


yo no naka o
nani nagekamashi
yamasakura
hana miru hodo no
kokoro nariseba

--Murasaki Shikibu

この紫式部の歌の日本語オリジナルは、「平安王朝クラブ」の「紫式部・和歌『紫式部集』&補遺」によれば、

世中を 
なになげかまし*1
山桜*2
花見るほどの 
*3なりせば 
(『紫式部集』日記歌「題知らず」)

である。「通釈」は、

山桜を見ているときのような物思いのない心持ちであれば、
どうして世の中はつらいものと嘆くことがあろう。
けれど実際にはそんな気持ちにはなれないことだ。

オノ・ヨーコの登場は2月18日「WAR IS OVER/ IF YOU WANT IT」についで二度目。紫式部の歌の引用は、3月29日「my melancholy fate, Zoë Lund」についで二度目。

昨年2006年1月29日に亡くなったナム・ジュン・パイク。日本にも縁の深かった韓国生まれの「定住遊牧民」については、日本語情報も不足してはいない。中でもナム・ジュン・パイクの死後5日後に松岡正剛さんによって書かれた追悼文は傑出である。ナム・ジュン・パイクの思想は、「情報革命」における「検索」の思想にまで及んでいることがスリリングに語られている。また日本人であることの情報文化的可能性の中心についても触れらているので、情報文化論の受講生の皆さん、必読です。

とはいえ、メカスの眼差しは、思想以前の生身のナム・ジュン・パイクの実存を直視している。そして「この世の人生はなぜこんなに苦しいのか」というナム・ジュン・パイクのものでもあったろう嘆きの問いに対する紫式部の歌を借りてのメカスの答えは、「人生を満開の山桜のように」突き放して見切る覚悟をするしかないでしょ、だった。

*1:「せば」+「まし」で反実仮想となり、どうして嘆くことがあろうか。しかし実際は嘆かずにいられない。

*2:東北地方の一部、関西以西、四国、九州などに咲く野生の桜。新暦の4月初めに赤銅色の若葉とともに一重の白、または淡紅色の五弁花を咲かせる。ソメイヨシノなどより早く開花する。

*3:意味が二通りに解されている。(1)桜を見ているときのような、物思いのない心(『大系』『国文』『全評』)(2)山桜の花の一盛りほどの、はかない人生だと思い諦める心(『評釈』)