メカスの読んだ新渡戸稲造『武士道』

ジョナス・メカスによる365日映画、8月14日、226日目で、メカスが読み上げたInazo Nitobe(1862-1933)の "Bushido, the Soul of Japan"(1899)の日本語訳のことが気になっていて、矢内原忠雄訳、新渡戸稲造著『武士道』(岩波文庫、昭和13(1933)年)を読んだ。

武士道 (岩波文庫 青118-1)

武士道 (岩波文庫 青118-1)

「訳者序」には、 "Bushido"の最初の日本語訳は、明治41(1908)年に桜井鴎村(1872-1929)によってなされたとあり、新たに訳出する理由について矢内原忠雄(1893-19661)は次のように書いている。

桜井氏の訳はなかなかの名訳である。しかるに私が敢えて新たに本書の翻訳を試みたる理由は、同氏の訳書がすでに久しく絶版であって容易に発見せられないことのほかに、氏の訳筆が漢文漢字の素養の一層乏しくなれる現代日本人にとりて難解であることを恐れるのと、内容上の瑕瑾(かきん)もまた絶無とはいえざるが故である。(4頁)

今から70年ほど前の矢内原の「現代日本人」に対する嘆きが興味深い。今日生きていたら卒倒するに違いない。

肝心の、メカスがはじめに読み上げた「古代ギリシアの歴史家ポリュビオスによる理想郷アルカディアにおける音楽の重要性に関する説明」部分は「第5章 仁・惻隠(そくいん)の心」の後半にあり、矢内原訳は次のようである。

ポリビウスの語るところによれば、アルカディア憲法においては三十歳以下の青年はすべて音楽を課せられた。けだしこの柔和なる芸術によって、風土の荒涼よりきたる粗剛の性質を緩和せんとしたのである。アルカディア山脈のこの地方に残忍性の見られざる理由を、彼は音楽の影響に帰している。(58頁)

「音楽は暴力、戦争に加担しうる」(菊地成孔)という言い方に一理ある場合(戦意高揚音楽)も確かにあるが、それは音楽によって一時的に「残忍性」を隠すだけのことだろう。この部分はメカスの音楽に関する思想に相通じる。

メカスが次に読み上げた「精神文化の一環であるファイン・アートとしての茶の湯に関する説明部分」は「第6章 礼」の後半にある。矢内原訳は次のようである。

最も簡単なる事でも一の芸術となり、しかして精神修養となりうるかの一例として、私は茶の湯を挙げよう。芸術としての喫茶! 何の笑うべきことがあろうか?(65頁。ここでメカスは別の意味で笑っていた。)
(中略)
茶の湯は礼法以上のものである------それは芸術である。それは律動的なる動作をば韻律(リズム)となす詩である。それは精神修養の実行方式である。(66頁)