フェルナンド・ペソアの『不安の書』に「書の不安」を感じる

不安の書

不安の書

今まで食わず嫌いだった、ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアFernando Pessoa, 1888-1935)の『不安の書』をぼちぼち読んでいる。今年の初め2007年1月31日に新思索社から出た高橋都彦氏による日本語では初めての「全」訳である。興味深いことは、それは本としてのオリジナルが存在するような存在しないような、それこそ「不安な」本であることだ。というのも、本書は、ペソアが生前書きためた「未完成の断章」群を彼の死後半世紀近く経ってから、色んな人たちがそれぞれの解釈(翻訳を含めた)に基づいて一冊の本として編纂した複数の異本の内、アントニオ・クアドロスが編纂したポルトガル語全集版Livro do Desassossego(1986)の日本語訳である。高橋都彦氏はリチャード・ゼニス(Richard Zenith)編纂のポルトガル版(Livro do Desassossego, 1999)も参照したという。その詳細については「凡例」(11頁)および「訳者あとがき」(648頁)参照。また、日本語以外の言語による翻訳版に関しては、本書末尾の高橋氏による解説「フェルナンド・ペソアと『不安の書』」と「訳者あとがき」に詳しい。ちなみに、日本語題名に含まれる「書」にあたる各言語の単語はそれぞれLivro(ポルトガル語)、The book(英語)、Das Buch(独語)、Le livre(仏語)、Libro(スペイン語)である。要するに「本」であるのだが、そもそも本とは何か、が私の関心である。

The Book of Disquietude: By Bernardo Soares, Assistant Bookkeeper in the City of Lisbon (Aspects of Portugal)

The Book of Disquietude: By Bernardo Soares, Assistant Bookkeeper in the City of Lisbon (Aspects of Portugal)

Das Buch der Unruhe des Hilfsbuchhalters Bernardo Soares

Das Buch der Unruhe des Hilfsbuchhalters Bernardo Soares

Libro del Desasosiego

Libro del Desasosiego

解説の中で高橋氏はペソアの専門家であり新版仏訳(Le Livre de l'intranquilité de Bernardo Soares, 1999)の編訳者ロベール・ブレションが、その仏訳版の序言で「『不安の書』はペソアにはまったくふさわしく逆説的な作品である。タイトルに反して、未完成の断章の集合は、今日、世界文学の傑作のひとつと見なされるが、「書」ではない。それは絶対に存在しない書の影あるいはコピーに過ぎない」と断言していることに触れているが、「絶対に存在しない書」という抽象的で大げさな表現は、「未完成の断章の集合」は可能態としての本であり、ポルトガル語版も含めて各言語の翻訳版の本は本来の可能性の一部を本の形に具現化した現実態としての本にすぎないという認識を示している。しかし、そうだろうか。

もしペソアが生前に『不安の書』を公刊していたとしても事情は本質的に変わらない。問題なのは、そもそも本って何?という点にあるからだ。ただ、そうではなかったことで、本のもつある種の「いかがわしさ」が露になっているような気がするのだ。書いた物をなぜ本にする必要があるのか。また、そもそも「本を書く」という欲望はどの程度のものなのか。そのあたりを抉るようなことも、三つの人格、三つの異名heterónimoを創造し駆使したペソアが考えなかったはずはないと思うのだ。「書く」ことと「本」にすることとの間には随分距離が、さらには深い溝があると思う。

その点でもしもペソアが現代に生きていたら、インターネットで、ブログで、複数の匿名を使って、断章を公開しつづけるのではないかと想像してみることには意味があると思う。私は常々、本が物理的な制約のせいで展開できずにいる可能性ということを夢想してきた。ペソアを代弁するロベール・ブレッションのいう「絶対に存在しない書」の存在を可能にするのがインターネットなのかもしれないと思ったりもする。だから、「未完の断章の集合」がこのように従来型の「本」になってしまうことで、ペソアが本来望んだかもしれない可能性は絶たれるのではないか、などと不謹慎なことを考えたりもする。それら未完の断章たちは、もっと自由な形で公開され流通することを望んでいるのではないかと。

本に関する私のつたない現状認識と将来の展望はおおよそ次のようだ。「本の神話」は永遠に生き続ける一方で、色んな状況証拠から推理するに、そんなに遠くない将来には、『不安の書』をはじめほとんどの本は物理的な束縛を解かれて様々に分節化された情報単位としてインターネット上を流通することになるだろう。物質的な本が情報的なハイパー・テキストに解体されつつ、潜在的なリンクをどんどん顕在化してゆく動向の全面展開。それは「絶対に存在しない書」の思いも寄らない具現化と言えるのかもしれないし、もっと言えば世界と輪郭を同じくする「唯一の本」の実現の過程なのかもしれない。そしてさらにそれに照応する「私」ないしは主体に関しては、従来の「本を読む私」とか「本を書く、出す私」を支える古典的な欲望、動機とは位相の異なる欲望と動機の形成について語らなければならなくなるのかもしれない。思うに、最近の私たちのインターネット体験はすでにその段階に突入していて、ただそれに見合う認識の言葉をまだ誰もちゃんと繰り出せないでいるだけなのかもしれないな。

『不安の書』の中身についてはいずれ、また。