体と地球

毎朝散歩しながら、自分の体と地球を感じている。別に環境問題について考えながら歩いているわけではないが、自分の体についてちゃんと知ることは地球について知ることにつながっているとなぜか感じている。ただひたすら身近な現実、その変化をよく見る、観察しているだけなのに、世の中は、物や自然を大切にする、無駄遣いをしない、余計な消費はしない、そんな言うまでもない当たり前のことがことごとく崩れ去り、これでもかという勢いの真逆の激流に押し流されているのだなあと強く感じたりもする。

以前、takuo(http://takuo.info/)と開発と絡んだ環境問題にどうアプローチするかという文脈で議論したときのわだかまりを思い出す。その先に待つ現実に責任を負うことができなければ、隠蔽された事実を暴くだけでは、あまり意味がない、というとりあえずの結論に達した議論だった。しかし、「隠蔽されるという構造」が温存され続けてきたことが問題なのだと今思う。そこには平気で隠蔽する側の無責任さと、容易に騙される側の素朴さとが、長期間にわたって共犯関係を築いてきたという歴史がある。状況次第で立場は入れ替わる。その意味でやはり「構造」が問題なのだと思う。

なぜそうなのか。思い当たる節がある。それは、卑近な例としては自分の体調不良の原因などをちゃんと知ろうとしない子供っぽい、甘えた傾向である。日本人に多いのだろうか。また極端な例としては、日本では未だに末期癌と診断された患者への告知の是非が問題になることが多いらしいということがある。私の父の場合もそうだった。ただそれは父だけの問題ではなかった。父の性格からして、本当のことは知らせない方がいい、と私が判断したのだった。今から思うとそれは「甘えー甘やかす関係」のなかでの判断だった。当然、病状の悪化や治療の進展につれて、父は疑念を抱いていたはずだった。しかし、私も医師も本当の事は言葉では知らせなかった。だから、父はそれを知らないことになっていた。そして父はそれを知らないまま死んだことになっている。

事実を知らせない上でのコミュニケーションは辛いものだった。言わば嘘の上に嘘を塗り重ね続けるようなコミュニケーションだった。本当のことを言ってくれ、とは父は言わなかった。もしかしたら、父はすべて悟り、私に気を遣って敢えて知らないふりをしたまま逝ったのかもしれなかったとも思う。そうだとしたら、それはそれで残念なことだ。事実を共有できていれば、心を通い合わせて、もっと「前向きに」色々と話すことができたはずだったと思える。たとえ、死期が近づいていたとしてもである。そんな経験から私は家族には常々私がもし末期癌などと診断されたらちゃんと告知するようにと言ってある。

開発と環境の問題のみならず、多くの国民が生活や生存に関わる本当の事実をできるだけちゃんと知りたいと強く思っていたら、そう簡単には事実を隠蔽して事を運ぶことはできないだろう。事実をオープンにしたうえで、さあ皆さんどうしましょうと、試行錯誤しながら事を運ぶ機会が増えるだろう。しかし現実には多くの事実隠蔽工作がスイスイと罷り通っている。ということは多くの国民は本当のことをちゃんと知りたいと強く思っていないということである。(対偶は真なり。)それは事を計画し実行する立場の人間たちも共有している傾向のはずだ。「本当の事なんて知らなくてもいい」国民性という「甘えの構造」、構造的障壁か。

例えば、こんなモデルを考えてみる。ここに三つのタイプの人間がいるとする。Aはある危険な事実を知っていながら、それを隠すためにある計画を実現した立場にいる者。Bはその危険な事実を知らずに、その実現した計画に近づきすぐには気づき難い被害を蒙った者。Cはその事実を突き止め、その実現された計画には近づかない者。AとBは表向きは加害者/被害者の関係に見えるが、実は「本当の事なんて知らなくてもいい」という同じ土俵の上にいる。Cは「本当のことをちゃんと知りたい」という別の土俵の上にいる。AとBは大多数。Cは圧倒的少数。

そこで、CはBに「本当のこと」、「正しいこと」を知らせようとするが、そもそもBはAと同じ「本当の事なんて知らなくてもいい」という土俵の上にいる。さて、CがAとBを自分の土俵に誘き出すことはできるだろうか?それは不可能に近いほど非常に難しいと思う。Cの土俵が正しいというだけでなく、魅力的でなければダメなのだと思う。それはCの生き方がAやBに魅力的に映らなければダメだということだ。「本当のことなんて知らなくてもいい」人生よりも、「本当のことをちゃんと知る」人生の方がこんなに豊かなんだということをちゃんと示せなければダメだのだ。これは難しい。