Bésame Muchoに関する大きな誤解

昨日、「最近、色んな方面の話題の中に、『別れの作法』を見ようとしている自分がいることに気づいた」と書いた。相手が女(男)でも、会社でも、組織でも、あるいは国家だろうが、とにかく自分が関係したり、所属したりしている相手から離れる、別れるときの作法。場合によっては民族や文化、言語さえ、そんな相手として考えなければならなくなるときもあるだろう。

ひとつには、そんな脈絡もあって、一昨日はボサノヴァが男の視点から別れを巡る自他の心の高度なコントロールを秘めた表現(歌詞)を特徴とするのではないかという拙い分析をしたのだった。そこで、そう言えば、女の視点から似たような表現に達している歌はなかったかと思い出そうとしていて、古いラブソングの「ベサメ・ムーチョ(Bésame Mucho)」に想い至った。そして大きな誤解をしていたことに初めて気づいた。てっきりそれは「別れの歌」だと思い込んでいたが、実はそうではなかった。

Consuelo Velázquez*1
「ベサメ・ムーチョ(Bésame Mucho)」は「もっとキスを」(Kiss me much)という意味のスペイン語の歌である。1940年にメキシコの女性のソングライター、コンスエロ・ヴェラスケスConsuelo Velázquez, 1924-2005)が作った今や古典的なラブソングである。その曲の由来について、彼女がまだファースト・キスも経験していなかった16歳の誕生日を迎える前に、あの悲劇的な死を遂げたスペインの作曲家エンリケ・グラナドスEnrique Granados, 1867-1916)のオペラに霊感を受けて作ったと伝えられることを初めて知った。そのオペラはおそらくグラナドスの最高傑作と言われる「ゴヤ風に---恋する若人たち」Goyescas---Los majos enamorados) であったように思われるが、正確なところは不明である。

この「ベサメ・ムーチョ」をスペイン語がよく分からなかったせいもあって、私は今までずっと「別れの歌」だと思い込んでいた。別れることを決意した女がその最後の夜をあらゆる未練を断ち切るべく演じ切る心を表現したものだと思い込んでいた。凄い歌だと思っていた。これは、一昨日書いた「想いあふれて」の高度な表現の女性版というか、男女の心の機微を女の視点から深く抉ったような表現であると思っていた。ついでに言えば、その一番のポイントは相手にこれが「最後」であることを肝に銘じさせるところにある。そしてそのためにその「最後」を徹底的に祭り上げる。相手(男)はこれが本当に最後であると思い切らされる、仮死状態に近いエロスの中で自分の一方的な欲望を燃焼され尽くす。仮死の祭典。そして気づいたら、女はいない。かなり凄い歌である、と思い込んでいた。

ところが、実はそうではなかった。その歌詞を英訳と照らし合わせながら改めて読んでみたら、今正に恋のまっただ中にある女、それもおそらく初恋の切ないクライマックスを歌い上げる内容だった。とんでもなく大きな誤解をしていたのだった。

でも、そのお陰で、私が勝手に読み込んだような内容を表現した歌はきっとどこかにあるはずだ、なければ、作ればいい、そう思い直すことができたのであった。

ところで、「初恋の切ないクライマックス」とは言え、この歌には「相手を失うことへの底知れぬ怖れ」から立ち上がる、つかの間の、しかし強度に満ちた「歓喜」が見事に表現されていることも確かで、その意味ではなかなか凄いラブソングだと思う。この歌の本質的な凄さを分かって歌っているのは、いろいろ聴いてみたが、文句なく素晴らしいのはブラジルのボサノヴァ歌手ローザ・パソス(ホーザ・パッソス, Rosa Passos, 1952-)である。

評判のよい、盲目のテノール歌手アンドレア・ボチェッリAndrea Bocelli, 1958-)の「ベサメ・ムーチョ」(You Tube - Andrea Bocelli sings 'Besame Mucho', 3:56)も悪くない、それなりに魅力的だが、ローザの繊細さ、深み、激しさには遠く及ばないと感じた。

*1:This image is in the public domain. cf. http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Consuelo_velazquez.jpg