印刷史の盲点

『印刷史/タイポグラフィの視軸』(asin:4916043820)の「近代日本活字史の基礎知識」で、府川充男氏は江戸期の書体に関して当時の身分差別の観点から次のように述べる。

江戸期に、庶民が明朝体の書物を読んだりすることはまずありえませんでした。つまり明朝体は智識階級だけが読む文字だったわけです。(22頁)

この一文に関する脚注にはこうある。

庶民の子供が通う手習いで教わる漢字は恐らく数百のオーダーを出なかった。また漢字も行草が基本であって、日常読み書きならわす文字は行草プラス仮名が主体であった。草子本の類いの紙面に現れる漢字もせいぜい数百、しかも庶民を対象とする書物では漢字にすべて振り仮名が付いていた。対して武士の子弟は三字経、千字文から始まって徹底的な漢字教育を受けた。漢文、漢籍の文字は楷書ないし明朝体であった。武士や僧侶と庶民とでは、<文字生活>に階級的な隔絶があったのである。(22頁)

また文学作品『落くぼ物語』(1794年、木活字版の大本)は漢字は草書で一部連綿の仮名が用いられていることに関する脚注にこうある。

漢文、漢籍が楷書、明朝であるとすれば、文学作品は草体プラス仮名であるという具合に、書物のジャンルによっても書体の遣分けが存在した。(22頁)

なるほど、と素通りしてしまいかねない論述であるが、ちょっとひっかかった。ここで府川氏は、

  1. 身分の違いによる書体の違い
  2. 印刷物のジャンルの違いによる書体の違い

の二つを同列に置いているように読める。もちろん、間違ったことは何も語っていない。ただ、身分、書体、ジャンルの三つの水準の違いが考慮されていないと感じた。もちろん、それは印刷史的関心の埒外の問題意識だろうが、私としては気になった。それは何を意味するかというと、仮に(実際にそうだったわけだが)、その後身分差別が一応解消された際に連動して起こるであろう変化の本質を展望しにくくなるということである。

というのは、智識階級と庶民の区別と学問的印刷物と文芸的印刷物の区別は次元の異なる区別であるからである。その次元の違いを考慮しなければ、楷書・明朝体と行草プラス仮名という書体上の区別を軸に両者の区別を挙げても、三者の関係の形式的な理解しか期待できない。例えば、その理解を表にするとこうなる。

書体 身分 ジャンル
行草プラス仮名 庶民 文芸
楷書・明朝 智識階級 学問

これでは悪い意味で形式的ないし平面的な理解と言わざるを得ない。ではどうしたらいいかというと、やはり三つの区別のうち最も深い身分差別を軸に理解を再編成しなくてはいけないと思う。それを敢えて表にするとこうなる。


はてなの表組み記法でのセルの結合法が分からなかったので、別で作ったものの画像を貼付けました)

こうすれば、すくなくとも身分の違いがアクセスできるジャンルの範囲と扱える書体の範囲の違いを生んでいることが一目瞭然になる。そう理解した上で、身分差別が少なくとも表面上解体された後の社会体制のなかでのジャンルや書体の変化の意味を追うことができる。