千二百年前、キミ(君)は伎美、伎見、吉美、枳美、岐美でOKだった‽‽

築島裕歴史的仮名遣い』(中公新書、1986年、asin:4121008103)の「一 仮名遣いはなぜ起こったか––いろは歌の成立とその展開」を読みながら、興奮した。奈良時代には発音と仮名の関係は、こんなに自由だったのか、しかもその後区別されなくなる微妙な音、アクセントの区別が生きていたのか。

奈良時代(西暦八世紀)には、「上代特殊仮名遣い」というものがあった。当時は、平仮名や片仮名はまだ発明されておらず、万葉仮名という、漢字の一用法によって、表音的に表記されていたのだが、例えば、キの仮名を含む単語に二つのグループがあって、キミ(君)、キク(聞)などのグループでは、キの万葉仮名は「伎」「吉」「枳」「岐」などが用いられ、これに対して、キリ(霧)、ツキ(月)などの万葉仮名は、「奇」「紀」「綺」などが用いられて、相互に侵すことがない、という事実があった。前者の仮名をキの甲類、後者の仮名をキの乙類と名づけて区別するのが普通で、このような甲乙二類の区別は、キの他にも、ケ・コ・ソ・ト・ノ・ヒ・ヘ・ミ・メ・ヨ・ロの合計十二の仮名(およびその濁音の仮名、他に『古事記』では「モ」にも)見出されている。(11–12頁)

築島氏によれば、この甲乙の区別は、単語による意識的な区別ではなくて、当時の発音の違いによる。つまり今日同じ「キ」とみなされる音には本来区別があったということである。とりあえずそれを「キ1」と「キ2」と分けて表すことにして整理するとこうなる。

時代 キの甲類 キの乙類
現代 キ(君、聞) キ(霧、月)
古代 キ1(伎、吉、枳、岐など) キ2(奇、紀、綺など)

非常に興味深いことは、そのような今日では忘れ去られた音声上の区別もさることながら、「上代特殊仮名遣い」とは厳密には「仮名遣い」というルールではなくて、違った音は違った万葉仮名で書くという表音ルールであったということ、しかも各音を表す万葉仮名(実質的漢字)には選択の幅があったということである。

なにしろ、今日では、例えば「君」としか書けないと思い込んでいる「キミ」を当時は伎美、伎見、吉美、枳美、岐美などと書くことができたのである。

だから、どうなの?というと、今から奈良時代のルールに切り替えようというわけではもちろんなくて、それも楽しいかもしれないが、こういう歴史的事実を知ることは、音声と文字の間の硬直した関係を柔らかくほぐし、日本語表記をより豊かな方向に持って行くことができるのではないか、と思えるということ。

例えば、「君」と書いて、「伎美、伎見、吉美、枳美、岐美」のようなルビを振るだけで、日本語表記の千二百年の歴史的時間をそこに「流す」ことさえできるわけだから。そんな面白いことはないと思うのだ。

と、ここまで書いて、そう言えば、詩人はとっくにそういうことをしていたことに思い至った。例えば、吉増剛造は古代の特殊な仮名遣いを踏まえて現代語で書かれているはずの詩編のなかに古代の言語世界へワープするような「通路」をたくさん作ってきたはずなのだった。こうして、なんとかたどり着いたと思った場所にはまた詩人の足跡がある。参ったなあ。いつまでたっても、追いつけそうにないな。どこかでバイパスを見つけなきゃ。