香水、香港

題名も監督も分からない映画の一シーンに感動した。

舞台は香港。三人の青年がダウンタウンの裏ぶれた「半島ホテル(Peninsula Hotel)」に長期滞在して、ある種の恋のゲーム、人生のゲームに賭けているらしかった。途中から観始め最後までは観なかったのでストーリーはよく分からなかったが、そんなことはどうでもよかった。どの会話もリアルに行動的で、小粋で小気味よく、気分が良かった。某国でありがちな湿っぽく共依存的な関係とは全く異質な、自立した孤独な人間同士の切ない関係がクリアに描かれていた。

あるシーンで、三人のなかで一番生真面目そうな一人の青年が雨の中確かな当てもなく路線バスの停留所に佇んで誰かを待っていた。待ちくたびれて諦めかけたとき、一台の回送バスが彼の目の前に急停車する。ドアが開く。女性ドライバーが青年に声を掛ける。乗らないの? 彼は躊躇う。言葉はない。表情で十分。余計な言葉は心理という生き物を殺すということが演出家、監督にはよく分かっているのだろう。彼女だけが言葉を継ぐ。前にどこかで会ったわね? 青年は言葉では応えない。

そんな傍からはちょっとじれったい時間が、「出会い」の瞬間の心の揺れと時めきを正確に表現する。意を決した表情で彼はそのバスに乗り込む。他に客はいない。青年はすぐに女性ドライバーがつけている香水の名前を言い当てた。この映画ではその青年はなぜか香水マニアの一面を持っていたのだった。汗っかきだし、ガソリンの臭いも消すためよ。回送バスは香港の夜の街を疾走する。回送バスのなかで、二人はかけ離れた心の距離を少しずつ少しずつ縮め合う。

青年は本来の目的があってバスを待っていた。しかし目的からは逸れたバスに乗った。寄り道するように。そして後から彼はそのとき自分が新しい恋に落ちていたことを知るのだった。

数日後、彼は自分の気持ちを確かめるように、小さなプレゼントを両手に大事に抱えて、その女性ドライバーが運転しているはずの路線バスを待っていた。しかし、運転手は代わっていた。彼女はその路線の担当から外れたらしい。そこにあるはずの目的=対象が突然目の前から消えた。「イナイイナイ、バー」の「イナイイナイ」状態に彼は突き落とされた。彼は彼女の行方を必死に探した。バス会社の事務所を訪ねたが、誰も彼女のことは知らなかった。

青年は宛先を失った贈り物を抱えて項垂れて路線バスに乗り込んだ。その半二階建て路線バスは運転席が一階部分にあり、客席は二階にある。客席には彼一人だ。彼は意を決したように、プレゼントを紐解き、中身を取り出す。香水だ。ミュージック、スタート!(ラテン系の曲が流れるが、未同定。)

女性ドライバーが気に入ってつけていた香水を彼はプレゼントに選んだのだろう。しかし、いまやその香水は彼女には届かぬものになってしまった。彼は走り出した路線バスの客席で舞い踊りながらその香水を振りまき始めた。瓶が空になるまで舞い踊り続け振りまき続けた。ついには最後尾のシートに幸福そうに倒れ込んだ。香水に満たされた空気に包まれた青年を乗せて、路線バスが香港の街を走る。こう書きながら、香水、香港か、と気づく。見事なシーンだった。

雨、汗、香水、香港。雨は香港の汗なのか。

断続的に正味30分も観ただろうか。でも気持ちのよい会話とともに皮膚と鼻腔を刺激するシーンの連続で、なかなかテイスティないい映画だと思った。