非常によく出来たメディア、一種の器としての書物、本の客観的な姿についての手堅い認識は、京都の中西さん(id:gintacat)に任せて、ウェブの恋路をなりふり構わずひた走る私は、もう少し主観に身を委ねて、自分の側から本について語りたい。
以下は敢えてする極論であることをお断りしておく。
本って一体何かはその人が本と具体的にどう付き合ってるかによって決まる。だから、本の本当の姿は見えている姿とはかなり異質だと思ったほうがいい。その人の本との付き合い方の全体がその人にとっての本の真の姿だ。それは決して誰にとっても同じような形をした、あの本ではない。人それぞれにとっての個別的に真実な本の姿がある。その真実の本の姿が、実はウェブ上でかなり理想に近い形で日々生成しているのではないかというのが、昨日から私が仄めかしている仮説である。
三ちゃん、その仮説、面白そうだけど、非常に分かりにくいよ、と大分の小野さん(id:sap0220)が突っ込んでくれた。とても嬉しい。私にも分かっていないところは多々ある。そもそも直観なんだから。でも自分の直観を信じずに、何を信じることができよう。私はその直観と心中してもいい覚悟である。わっ。
ここでは、小野さんの暗黙のリクエストに手探りで答えてみたい。そう、人生はいつも手探り。おお、今晩も冴えている。基本的な認識を二点くらいあげられるような気がしている。
1本のために人生があるんじゃなくて、人生のために本はある。
これが先ず押さえるべき一番大事なポイントだと思う。そして、
2実際に本を読むというときの「読む」ことのなかで起こっていることを本の側からではなく、自分の側からきちんと押さえる。
すなわち、
2'本に合わせる必要はない。自分に本を従わせる。
ある意味で、金城さんのようにね*1。
そして、もう少し行けそうな気がするので、行っちゃえ!
3人生に必要な素材、情報の区切りや敷居やインターフェースは、従来の本が持つそれらと同じである必要はない。
だから、ある意味で、まだ少しは拘っているところがあるんだけど、「頁」という敷居についても、人生の一頁とか、確かに言うけれども、私としては、取っ払ってしまいたい衝動がある。
4頁のない本。
こういうこと書くと、美崎薫さんから「三上さん、哲学しすぎ、しすぎ、形而上学しすぎ、しすぎ。」とからかわれるのは承知の上。彼なら「頁をなくすなんて、そんな無謀な。絶えず成長しつづける頁を作りゃ済むことでしょ。」と言うに決まっている。そして、こう続けるだろう。「だから、三上さん、ウェブじゃ、無理、無理。絶えず成長し続けるファイルを作っちゃえばいいんだよ。自前でね。でも大半が人任せのウェブじゃ、絶対無理、無理。使い物にならんでしょ。」
この仮想のやりとりを美崎さんには内緒で書きながら、気づいたことがある。「人任せ」でどこが悪い?むしろ、そこにこそ、私が夢見る理想の本の核心が隠されている...
小野さん、どうかな?