いざ北へ2008その23 体験の敷居1

これは独立したエントリーとしても、前エントリーの続きとしても読めます。

(...だから、例えば、)私はこのブログ上で一冊の本の定型的な紹介はできるかぎり避けています。だって、一冊の本単位で読書体験なんかしてないもん。

中西さん(id:gintacat)が暴きつつあるように、「本」という漢字が依って立つ観念は一本、二本の「本」らしいんだけど、そんな大雑把な観念に私は私の貴重な体験を委ねたくない、縛られたくないし、そんな区切りでズタズタにしたくない。マジでそう思っているんです。もっとずっと繊細で動的な区切りが必要だと強く感じているんです。

例えば、私はその日の体験の大切な記録として、ある本の表紙の写真の一部だけとか、ある頁の一部の写真だけとかを平気で掲載します。どうしてかと言うと、それがその時の私の体験の真の姿に近いからです。それを誤摩化したくない。我が儘なんです。もちろん、その本を一所懸命書いた、翻訳した、作った人たちへの感謝の気持ちも一方にはちゃんとあるから、一冊の本としての情報にたどりつけるリンクは必ず張ります。でも、私にとっての真実の本の姿は、先ずは、そんな断片的な姿をしているのです。そこから目を逸らしたくないんです。

そして、その断片たちを、本来の本の一部であることから解き放って、他の色んな本の断片たちと繋げていく。そういうことをかなり自覚的にやってきたんです。ちょっと違うかな。気づいたら、そういうことになっていた。それが自然だった。それが私にとっての読書であり、そこで感じている総体が私にとっての「本」なわけです。そして、私にはブログ、ウェブそのものがそんな「本」に感じられているんです。分かりにくいですか?

そうだなあ。例えば、私のある日の生活の実感を本に即してイメージするとしたら、「今日この一冊の本を読みました」では全然駄目なわけです。そうではなくて、「今日はこれら数百冊の本の数千カ所をこういう風に辿りました」という感じになるわけです。少しはイメージ伝わりましたか? この辺りの感覚が美崎薫さんのハイパーリンクや金城さん(id:simpleA)の「本が本を読む」に近いわけです。多分。

それでね、梅田さん(id:umedamochio)の「ウェブブック」を見たとき、素晴らしい、賢いなあ、上手いなあ、とは思ったんだけど、私にとっての未来の本ではないと感じたんです。その直観を隠しておいてもよかったんだけど、それこそウェヴに恋する者の掟としては、紙媒体では不可能な速度が勝負なわけですよ。だから、すぐに私が感じている未来の本の姿は少し違うよと梅田さんにはメッセージしたわけです。それがこの世界、ウェブ世界の仁義でもあると思っているからです。

すると、流石に梅田さんはそれにもちゃんと応答してくるわけですね。何考えてんの?もう少し話して聞かせてよ、ってね。だから、こうして性懲りもなく書き続けているんです。

もう書いたことだけど、札幌シュポはすでに始まってます。