ブログは仮面舞踏会か:美崎薫さんのブログ批評をめぐって

私はどんな表現もその人の人生の記録だと思っています。表現技術上の巧拙はあるにしても本質的には優劣はない、と。

先日、美崎薫さんの連載をある文脈で紹介しました。

あれから、新たに「第11回  未処理を「今日」に置く」が追加されました。

ところで、単純ではない理由から、ウェブを個人的な表現手段としては使わない、使えない、と公言して憚らない美崎薫さんは、ブログに関しても、鋭い意見を述べています。是非読んでみて下さい。

一部引用します。

書いたことは残るので、だんだん書いたことに縛られて考えたりするかも…。
書いたことが次第に人生を侵食するような恐怖感があります。

脚色したり,オブラートにくるんだりして書くと,そちらが「ほんとう」になってしまうことを危惧します。

blogを書いている友人はとてもたくさんいるのですが,やっぱりみんな脚色していたり,話題として扱いやすいことだけをとりあげて書く傾向にあるようです。他人事で老婆心ながら,それでいいんだろうか,という気がします。

愚考するに,よいことも悪いことも,ひっくるめて人生なのだと思うし,その取り返しのつかない一回性を生きていくのが人生なのだろうと思うためです。

オブラートに包んだ人生,ひとに話せることだけの人生には,なんだか薄っぺらい感じがするのです。語らなかったこと,自分のなかに秘めたものは,秘すれば花。わざわざ表現しなくても自分のなかに「ある」というのかもしれませんし,それは自然に薄れていってもいいのかもしれません

表現できたものの集合であるインターネットを検索しても,それが人の似姿なのかというと,なんかちょっとずれている気がしてならないのです。違和感を感じています。だから,Googleで検索できることには限界がある,と思います。仮面舞踏会の仮面をはずせなくなってしまったような,踊り子が靴を脱げなくなってしまったような,そんな感じを抱いています。

なるほど、と思います。要するに、ひとに話せるように脚色したり、オブラートにくるんだりしたことばかり書いていると、きれいごとだけでは済まされないほんとうの自分の人生の全体と深さを見失うのではないか、と。私は「仮面をはずせなくなってしまった」、「靴を脱げなくなってしまった」のかもしれません。でも、そうだとしても後悔はしていません。

美崎さんは「ひとに話せる人生」と「自分だけの人生」という意味深長な対比を持ち出します。人生の記録としての本当の日記は後者であり、前者はそのいわば上澄みに過ぎないのだから、上澄みの記録に夢中になっていると、本来の人生を裏切ることになりかねない、と。もちろん、美崎さんが批評するブログとはあくまで「人生の記録」ないしは「日記」としてのブログです。

さすがに、鋭いなと思いました。「束縛」と「恐怖感」、そしてそれらの裏返しの感覚の反復が、快感原則的に機能しだして一種の「ブログ中毒症状」を生み出すと言えるかもしれません。

「blogを書いている友人」の一人としても、もっともだなあ、と感じることばかりです。ですが、だからといって、明日からブログ止めます、とはなりません。それは私が「真性ブログ中毒者」だからということもあるかもしれませんが、こういうことも言えるのではないかと思っているからです。

色んな言い方ができると思いますが、一番分かりやすいのは、部分と全体のたとえではないかと思います。美崎さんは人生という全体をブログという部分で代償させることは人生を誤りに導くのではないかと警鐘を鳴らしているように思えますが、私はむしろブログという部分はいつでも人生という全体を引き連れているというか、孕んでいるというか、その記憶的引き金になっていると考えます。書いたことに縛られるということも確かにありますが、それは一種の試練だと思って、乗り越えればいいことだと思っています。

「ひとに話せる人生」と「自分だけの人生」の対比については、前者が後者を侵蝕することは避けられないと思いますが、それはブログには限られないよくある話だと思います。美崎さんは公開=出版の強迫観念に囚われずに純度の高い「日記」をものした作家たちの系譜に属するのでしょう。

私は「ひとに話せる人生」が「自分だけの人生」をどこまで侵蝕するのかを確かめようとしているのかもしれないとふと思いました。人に話せない人生は自分だけの人生でもないのではないか、と。要は、「自分」をどうとらえるかということだとも思いますが。