葦手

葦手(あしで)を見るたびに、千年も前にこんな「日本語のデザイン」がなされていたことに驚く。


藤原公任(ふじわらのきんとう)『葦手古今集切』(11世紀中頃、→ 拡大写真


「の」と「や」の部分を拡大したもの。

「葦手(絵)」について、伝藤原公任の『葦手歌切』を例に挙げながら、永原康史氏はこう書いている。

 歌にかかわる文字の中には、絵になってしまったものもある。「葦手」である。「手」は女手などと同様、転じて書体の意味だと考えればよい。草仮名を葦の葉になぞらえたところからその名前がついたという。辞書には戯書きとも文字絵ともあり、「へのへのもへじ」などの文字遊びとの関連も指摘されているが、葦手の明確な説明はむずかしい。歌と文字と絵が一体になったもの、といえばいいだろうか。
 葦手をとりいれた絵を「葦手絵」という。和歌や漢詩からとられた文字(葦手)は、水の流れや葦、岩、水鳥などその景の中にひそみ、絵に歌を投影させる役割を演じる。葦手絵は長く愛好され、近世に入ってからも蒔絵や着物の意匠として好まれた。
 文字が絵に変化する様子は、伝藤原公任の『葦手歌切』にみることができる。「あ」や「ぬ」が葦の葉のように書かれ、「や」はあきらかに鳥として描かれている。「の」をその背景、たとえば山にかかる月とみたてれば、歌の中に一幅の絵画をみることができる。歌絵が本歌どりであれば、葦手は「掛詞」か「縁語」のようなものかもしれない。

 『日本語のデザイン』(asin:4568502438)52頁

「歌と文字と絵が一体になったもの」、「絵に歌を投影させる役割を演じる」、「歌の中に一幅の絵画をみる」では、葦手の説明としてもどかしい。もうすこし踏み込んだ説明はできないものだろうか。

こんな風に考えてみた。葦手は、一定の音声と歌の意味の一部を表わすと同時に、絵のテーマの一部をも表わしている。つまり、葦手は、音声と意味と視覚的イメージの三層にわたる突飛な文字なのだ。実際に、歌と絵の間に視覚的なつながりをもたらすことによって、歌の意味(景観や情緒)を絵の中に浸透させる、縫い込むような働きをしている。

連綿やちらしは、一応、二次元としての紙面の高度なレイアウトとみなすことができるが、葦手のような文字と絵の間の境界を侵犯するような逸脱したひらがなの存在は、実は三次元の深み、四次元の動向さえ再現しようとするさらに高度なレイアウトを示唆しているような気がする。

なお、和歌論、詩歌論の文脈で、自然と身体の関係の観点から「葦手」について論じた興味深い文章がウェブ上で読める。