カタカナのニンゲン


ツタ(蔦, Japanese creeper or Japanese Ivy, Parthenocissus tricuspidata


ガンジス河の河原で人間の死体が粗大ゴミのように無造作に次々と燃やされる光景を見続けたり、中洲に流れ着いた人間の死体に食らいついていた犬たちに襲われて命を落としそうになる体験を通じて、藤原新也は後に「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ。」と表現されることになる「ニンゲン観」に到達した。もちろん、実際に犬に食われていたのは人間の死体である。しかし、目の前で焼かれる死体も、犬達に食われている死体も、今生きている自分と分け隔てなくあることの衝撃が、日本で育つなかで死から隔てられることでかえって衰弱した脆い生に苛立っていた人間を、死と絡み合った逞しい生を自覚したニンゲンへと脱皮させた。カタカナの「ニンゲン」。

命を大事にすることは良いことだが、それへの過大評価は人間の過保護とエゴイズムとを生み出す。そういった優しいエゴイズムが子供の身体や心をいかにスポイルしていったかということを私たちはいやというほど知っている。それと同じように死や死体という人間の負の姿がさもタブーでもあるかのように人々の目から隠蔽されていく。皮肉なものだな。私たちはそのようにして生命の過大評価のあまり生命や死から遠ざけられ、生きているという実感を失いつつある。そして、ちょうど両親から過剰な期待と庇護を受けた少子化社会の子供が、”自分の大事さ”にいらだつように、現代を生きる人間はおしなべてそのようないらだちを体内に宿しているような気がするな。(『黄泉の犬』125頁、asin:4163685308

戦後の民主主義社会が私たちに教えてきたように、私という存在はそんなに大事なものじゃない。少子化社会の中で親が子供に過剰に期待をかけ過保護にしているが、人間ってのはそんなに後生大事なものじゃない。別にそのへんの動物や昆虫と変わらないんだって思った。(『黄泉の犬』137頁、asin:4163685308


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