留魂之碑:大田静男さんの「希望」


本橋成一監督のドキュメンタリー映画『ナミイと唄えば』(姜信子原作・企画、2006年、asin:B000LV6MLO)の後半、姜信子さんとナミイおばあが、大田静男さんの自宅を訪ねるところからはじまる場面がある。大田静男さんは自宅の野趣あふれるいい感じの庭のような畑地のような場所に、「あんとんまる事件」の名もなき犠牲者たちの魂を祀る「留魂之碑」と名づけた碑を自分で建てた。彼らを喜ばす歌をぜひ唄ってもらいたいとナミイおばあに頼んだのだった。大田静男さんは「留魂之碑」の由来について次のように語る。

ここは、朝鮮の人とか、中国の人とか、そういう祀られていない人たちを祀ったと。あんとん丸という、朝鮮の船か、中国の船か、分からない船が、イリオモテ(西表)に漂着して、そしたら、軍隊に捕まれて、重労働や、もう大変な仕事をさせられて、ところが、ご飯はお粥一杯とか。そしてこの人たちは、こんなに、酷使をして、重労働したものだから、戦争が負けたら、日本の兵隊は、こういう風にした人は、処罰されるかなと驚いて、早く殺したかった。ところが、鉄砲で撃ったらバレるから、イリオモテのカノカワ(鹿川)という所に連れて行って、そこに置き去りにした、そこに捨てて来た。その人たちは道も分からないから、もう、餓死して、マラリアにかかって、みんな死んでしまった。もう、これは、かっこうつけてということでもなくて、これは、結局、戦争を調べたりやっている間に、そういう人たちのことをいつまでも胸に、無念とか、そういうことを胸にとどめておくということで、作ったわけよ。だから、自分の、(ここで、大田さんの話に涙ながらに耳を傾けていたナミイおばあは「ありがとうございます」と一言驚くべき感謝の言葉を口にした……)そういうものを、二度とそういう風にさせないという、僕の想いの碑でもあるわけよ。


そんな「あんとん丸事件」の犠牲者たちの魂が祀られた、留められた碑に向かって、ナミイおばあは「アリラン」を熱唱するのだった。



『八重山の戦争』(南山舎、1996年)


「あんとんまる事件」について大田静男さんはその著書『八重山の戦争』(南山舎、1996年)では次のように述べている。

安東丸事件(あんとんまる事件)

1944年の暮れ頃、当時西表島内離島に本部を置いていた重砲兵第一中隊が、西表島船浮湾沖に漂流していた小さな木造船安東丸を発見、曳船した。 中国の大連から九州へ大豆類を運ぶ途中、済州島付近で機関故障し、漂流したといわれ、乗組員の人数や国籍は証言者によって違うが、朝鮮人、中国人で、10人余がいたものと思われる。 積み荷はすべて没収され、乗組員は強制労働にかり出され、過酷な労働と粗末な食事のために6、7人(2人ともいう)が死亡した。 部隊は8月の敗戦の報を聞くと、生き残った乗組員を西表島西岸の鹿川(廃村)へ連れてゆき食料も与えず放置。 やがて衰弱し動けなくなり、飢えとマラリアで次々と死亡した。後に散乱していた遺骨は洞窟近くに埋葬されたが、台風時の大潮に流され、現在は不明になったといわれている。


ナミイおばあの「カレシ」、あるいは「水牛老師」と異名をる大田静男さんは石垣市教育委員会文化課に勤める傍ら、沖縄戦の裏面史をはじめとする語られてこなかった戦争の裏の歴史やハンセン病患者の歴史を掘り起こして来た研究者であるだけでなく、姜信子さんによれば、「石垣島の芸能文化の生き字引のような人。昔から石垣島に伝えられている歌を中学生のときから収集してきた。この人が亡くなってしまったら失われてしまう石垣の歌もある。」という器量の大きな人である。


石垣島八重山ポータル「やいまねっと」の「西表島ラムちゃんぷる〜」に、大田静男さんが「骨の叫び…アントン丸物語」と題した叙事詩ともいうべき素晴らしい作品を寄せている。

アマンよ。聞こえるか。

わたしは、恨を抱いて南の島の暗い海底で眠れぬ日々を過ごしている。

骨のわたしはやがて砂に埋もれようとしている。

悔しくて 悔しくてならない。

太陽が沈み 月が上がり。
月が沈み 太陽が上がる。

歳月は潮の満ち引きのように流れ、わたしたちの恨も闇のなかに葬られようとしている。

……


大田静男さんが建てた「留魂之碑」には後日談があることを、「西日本新聞」(2005年6月23日付 朝刊)に掲載された記事で知った。その記事によれば、2005年5月28日、大田静男さんは「あんとん丸事件」の犠牲者たちの魂を海峡を越えて韓国に運んだのだった。その記事の最後はこう結ばれている。

韓国・永川市の寺。五月二十八日、日本軍に徴用され、戦没した犠牲者の鎮魂祭が行われた。大田さんが初めて訪韓するのに合わせ、沖縄戦研究を通じて知り合った韓国人が開いた。
 祭壇に、青磁の骨つぼが置かれた。中には小石が三個。遺骨を捜し出せないとき、その場所の石を骨の代わりとして持ち帰る沖縄の風習に合わせ、大田さんが石垣島から持っていった。
 「魂を持ち帰ってきてくれた」
 元慰安婦のハルモニ(おばあさん)たちが泣き崩れた。石垣島に徴用された経験のある元軍夫は細くなった腕で肩を強く抱いてきた。
沖縄本島、本土、そして歴史を超えて、心が通じた気がした。

 「元慰安婦のハルモニは泣いた『魂が帰ってきたよ』」


深い思いと強い意志を宿した一人の男が、歴史の底の暗がりに広がる瓦礫の間を縫うようにして、犠牲者、死者たちを悼むだけでなく、底知れぬ怨恨に打ち震えつつ生きる者たちの命に触れることによって、歴史にひとつの光明というか「希望」の灯をともした。