下川裕治さんの「アジア」の旅の語りの中にひとりの興味深い男が登場する。今は亡きフリーランスのジャーナリスト森智章さん。
「石垣島に行ったら、伊原間(いぱるま)へ行くといいよ」
そう教えてくれたのが、知人の森智章君だった。彼は僕よりも少し若かったが、そのときすでに世界の七十ヵ国を歩いていた筋金入りのバックパッカーだった。彼は大学時代、サトウキビ刈りの援農隊として二回ほど沖縄に渡っていた。
最近では、すすんでこの援農を体験したがる沖縄好きもいるようだが、当時はただ辛いだけの肉体労働のイメージがあった。実際、援農に応募する男たちの大半は、東北地方からの出稼ぎ組だったという。森君にしても、沖縄が好きというより、旅の資金を貯めるために沖縄の離島に向ったのに違いなかった。
森君が援農で沖縄に渡ったのはいまから三十年ほど前である。当時の沖縄は多くの土地がアメリカ軍の基地に接収された貧しい辺境のイメージに染まっていたような気がする。小浜島にできたリゾートが、新婚旅行客の間で話題になりはじめていたが、僕のような旅行者の目に映る沖縄には、少なくともいまのような明るさはなかった。
どうして彼が、石垣島の伊原間の民宿を知っていたのか、いまでは思い出せない。おそらく彼は援農が終わった後、ひとりで沖縄の離島をまわったのだろう。伊原間の宿には半月近くもいたようだった。教えられた『いぱるま荘』を訪ねると、出てきたおばあさんは、風呂で転んで足を痛め、いまでは休業中だと頭をさげた。僕が森君の紹介だというと、
「それは断るわけにはいかんさ!」
と笑って部屋に通してくれた。半月も泊まった男は、石垣島の民宿では特別な存在になっていた。それから三年後、彼はバングラデシュ南部の山中に入り、熱帯熱マラリアにやられ、ダッカのメディカルカレッジで息を引きとってしまった。下川裕治編『沖縄通い婚』(徳間文庫、2006年)の「あとがきにかえて」から
森智章さんは「本」という形ではその旅=人生の記録を残さなかった。だが、彼の存在は行く先々でそこに暮らす人々の脳裏に深く刻まれ、彼の旅=人生は、「サザンペン」と呼ばれる彼の活動を引き継ぐプロジェクトという形で記憶されていることを知った。
サザンペン(ARAKAN-JAPANESE FRIENDSHIP PROJECT:AJFP(旧森智章オ−ファンズスクール基金)