美しく復讐すること:金石範の場合


ジョナス・メカスの場合だけでなく、自分を含めて誰にとっても、生きることは失われた故郷への遠回りの旅、決してそこには辿り着けない旅だという思いに随分前から取り憑かれている。最近何本かの関心の線が交差したあたりに、済州島四・三事件、そして金石範の名が浮び上がり、いろいろと読みあさっているなかでも、金石範にとっての「故郷」の意味が知りたかった。そしてそれは彼にとっては生きる、生き延びることにほぼ等しいともいえる小説を書くことの動機にも深く関わってきたことを知った。結局、彼にとっての「故郷」は「人間」でいられる場所に外ならなかった。それを現実に奪った相手の本当の正体、自分の中にも深く食い込んでいる本当の正体を見極め、それを奪い返すための旅が、彼の生きること、すなわち書くことであった。


新編「在日」の思想 (講談社文芸文庫)

新編「在日」の思想 (講談社文芸文庫)


以下にその一部を引用する『新編「在日」の思想』に収められた三つのエッセイは、順に49歳、51歳、そして60歳の時に書かれたものである。

 一昨年の春だったか、私は東京で「アウシュビッツ展」を見た。ポーランドアウシュビッツ博物館から、わざわざ当時の遺品や資料などを送ってきたものだった。
 アウシュビッツだけで毎日一万人近い人間が殺されたという事実のまえで、われわれが自分の存在を支えている根拠は何かという不安に、私は揺すぶられていた。人間は生まれるべきではなかったと、まさに意味をなさぬことでも思うより仕方がなかった。そこには善悪の概念さえ寄せ付けない、途方もない殺戮の事実だけが、山脈のようにひろがっていたのである。
 しかしそれでもまだ私には、日本のデパートに「陳列」されているものを見る者としての距離と余裕があった。そして満員の会場をのろのろと廻りながら、アウシュビッツを経験したのはずの戦後の世界でいちばん最初に起きた済州島の虐殺のことを、私はしきりに考えていた。私はアウシュビッツを見ながら、ふるさとで起こった虐殺の事実は、その具体的な遺品や写真のような形でも(二、三の不鮮明な写真を除いては)見ていないのである。
 私は展覧会場を廻りながらうらやましく思ったのは、少なくとも克明に資料が残されているという事実だった。とくに、一メートル四方はある、強制収容所ガス室、焼却炉、銃殺処刑場、犠牲者の墓などを示す記号で埋まったポーランド全土の地図は、資料の集大成といえるものであった。地図のなかの無数の記号の背後には、執拗に調査され、資料となった過去の事実が横たわっていることが示されていた。私は正直いってうらやましかった。南朝鮮では権力によってタブーにされ、人びとの記憶からも消えていって、いまや歴史の闇のなかに埋もれようとしている済州島事件のことを考えると、猛烈にうらやましかった。そしてその克明な地図の背後にある復讐の事実のすばらしさに私は賛嘆したのである。

(中略)

 アウシュビッツが解放されて三年目に戦後最初の虐殺が、東洋の一角で起こったのは記憶されるべきである。ナチスの残虐が明るみに出されてニュルンベルク裁判が終わり、一方、日本軍の南京虐殺事件などを明らかにして極東軍事裁判が東京で行われているあいだに、事件は起こっている。「正義をともなわない文明は背理であり、この裁判の要求は実に文明と人間存在の要求である」というキーナン・アメリカ首席検事の論告にもとづいて、人類の名による厳粛な裁判が行われているというのに、当の審判者であるアメリカが李承晩を表に立てて「密島の虐殺」をしていたのだった。その済州島の虐殺は後年ベトナムで起こった虐殺の原型になっていると、いまいえるだろう。

(中略)

 考えてみれば、私が済州島事件を書くようになった動機のもっとも大きなものは、その死線をくぐり抜けてきた人びとに会ったということだろう。日本のすぐ近くの島で起こったこの惨劇が、ほとんど日本に報道されなかったのだから、私が事件を知るメディアは活字ではない。まさしく生きた人間だったのである。そして、これらの人びとによって知らされた虐殺と残虐の事実は、そこをふるさととする私のなかに大きな怒りをつくり上げたのだった。
 それまでも済州島は私にとって、単なるふるさとというよりも、朝鮮そのものを表徴するイデー的性格をもつものとして存在していた。日本で育った私が、少年期にはじめて接した済州島の自然の圧倒的なすばらしさは、その陽光のはねるまばゆい豊かな海と、雄大でまことに美しい漢拏山(ハルラさん)の姿のもたらす圧倒感は、やがて何かの放射線のように私の内部にあるものを破壊しはじめるようになった。そして、なんどか済州島への往来を重ねることによって、その破壊力ははっきりと実効を持ちはじめる。私の内部である「日本人」が打ちこわされはじめた。その「日本人」が外部から強制されたものであるという認識が、私を民族的に目ざめさせるようになる。つまり私は自分でいる「小さな民族主義者」になっていったのである。
 こうして、済州島は私のなかに「ふるさと」として存在しはじめた。それははじめから、ふるさととして私に与えられていたものではない。「ふるさと」として認識されたものだ。済州島は私の朝鮮の集約されたものであり、凝縮された形、核である。済州島をヌキにした朝鮮は私にはありえない。その済州島で生まれそこで育ちえなかったことへの痛恨の心が、亡国の民、流浪の民の子として、失われた祖国の独立を夢想する強いバネになったのだった。

(中略)

 私は結局、観念のなかの「済州島」を食んでいるのにすぎない。イデー的性格うんぬんがそれであって、何と実体のない虚ろなことばだろう。現実には済州島は私の手の届かぬ遠いところにあるのだ。この分かりきったことをあらためて認める私の心のなかに苦々しいものがひろがる。片思いにすぎない。現実の済州島に私は何の関係もしえない。
 私は女にふられた男のように、それでも、なぜ自分は済州島を書くのかと自問する。なぜ、ふるさとの地を踏むこともできぬ者が、こんな空しい作業をするのか。たとえ虚構であるにしても、ふるさとの地の肌をこの手で触れえぬ無残さを味わいながら。
 私のフィクションへの志向は、しかし、こういうところから生まれたのかも知れない。

(中略)

 私の作品に現れてくる済州島事件は、事実ではなく、一つの「状況」である。作家は事実を動かすことはできないが、状況はつくりうるだろう。そして、事実の底に流れているものを明るみに出すことができるかも知れない。それは私にとっての虚構と同じことになる。(金石範「なぜ『済州島』を書くのか」1974年、49歳)

 原風景ということばが私のなかに喚起するもうひとつのことばは、心象風景いわばイメージであり、それは私の作品世界のイメージの核をなすもの、「済州島(チェジュド)」となって現われる。もちろんイメージの原型は多様であり、それが単に偶然に出会った行きずりの女であったり、あるいは少年期のどうということもない平凡な記憶の断片であったりする。しかしそれらを包みこみ支えるものとしての、イメージの揺籃としての私の原風景は済州島、故郷なのである。
 すると、ことばを詰めていえば、「私の原風景は故郷」というふうになるのだが、これは「郷愁」にも似てかなり湿っぽく、それに陳腐な感じがする。しかし、じっさいの私のなかの「故郷」はそのような情緒的なものではない。それは青く光る漢拏(ハルラ)山の雪のような刃を私に突きつけるのであり、現実の済州島との繋がりのないままのイデーのようなものになってしまっているのである。私の「済州島」はいまやどこか別の空間に棲息する架空の「故郷」であろう。「故郷」は私の存在と作品のイメージの核をなすものでありながら、現実には私は故郷喪失者である。
 私は別に「済州島」だけをテーマにして小説を書いているわけではないのだが、なぜ、おまえは済州島をテーマにして書きつづけるのかと、よくいわれる。
 なぜ、「済州島」を書くのか? それなりの動機はあるのだが、しかし一口にいえば結局のところは、済州島が私にとって失われたもの、私にとって無いものだからということになるだろう。
 済州島は私にとってそのような失われた故郷であるだけではなしに、1948年4月3日、南朝鮮だけの単独選挙、単独政府樹立に反対して武装蜂起をし、アメリカの軍政と李承晩(イスンマン)の軍隊に立ち向かったいわゆる済州島四・三事件の起こったところであり、これが私の作品の重要なモチーフになっているものでもある。当時の人口二十数万のうち七万余が虐殺された凄惨な事件で、私は何もその壊滅のたたかいの歴史を再現するために書いているのではないが、私がそのことを執拗に書きつづけるのは、やはりそこが自分にとっての「故郷」だということがある。
 その「故郷」は私にとって何なのか。私が生まれていままでの五十年の生涯で、済州島をふくめてわが朝鮮での生活を送ったのは二、三年にすぎない。しかもこの三十年間は朝鮮へ行けないままにいるわけである。そして済州島が「故郷」だとはいうものの、最後に済州島へ行ったときの記憶を辿るのに三十年も遡らねばならない。そのあいだに私も年をとっていまは日本語で小説などを書くようになり、そして祖国の事情も、さらに済州島も(人々の考えも)大きく変った。一九四五年八・一五解放、つまり独立直後のころとは歴史が大きく変ったのである。同時に引き離されつづけた私にとっての済州島は、現実には故郷としての実在感のないイデーのなかの存在にすぎなくなってしまった。
 それは私にとって欠けたもの、永久に充たされざるもの、従ってそれがまた私の存在の強烈な欲望の対象になるものである。もし私が済州島に生まれ、そこで長らく住み幸福な生活の月日を送ったとすれば、「故郷」が私にとって保証されたものであったとすれば、私はおそらく済州島にこれほど執着しなかったかも知れないし、私の作品は生まれなかったのではないかと思う。
 私の原風景、それは済州島の揺籃から立ちのぼる土のにおいであり、人々の方言であり、海であり、漢拏(ハルラ)山である。それはやはり具体的な「済州島」でありながら、しかし現実には存在感の確かめようのない幻影のようなものとして、ただ意識のなかでしか増殖作用のできないものとしてある。だから、すぐれて原風景なのだろう。私がふと、自分の作品に故郷喪失者の夢、夢ということばにまるわる希望のニュアンスを取り去った、ただの生理的な反応としての夢かも知れないと思ったりするのもそのせいなのである。(金石範「私の原風景」1976年、51歳)

 私は日本の大阪生まれで、まもなく還暦を迎える年になった。そのあいだ済州島やソウルを含めて朝鮮で生活したのは二、三年間といったところだ。いやはや、よくぞこの日本で半世紀以上を……といった感慨、いたたまらない痛恨の思いがせぬでもないのである。

(中略)

 私は自分が日本生まれであることに、それは何も私の所為ではないのだが、一種のコンプレックスを感じてきたものだった。いまでも新聞などでの略歴欄に、大阪生まれとなっているのは毎度のことでありながら、何となく座りの悪い気持なのが正直な心情といえる。これはおそらく私の願望の裏返しなのだが、このどうともならぬ宿命的なことが、一方では私をつねに在日朝鮮人の歴史性に目覚めさせ、負を背負う者としての痛恨の思いと重なり、それがまた創造への力となっていることも事実といえるだろう。
 ところで私を孕んだ母が大阪へやって来て、二、三ヵ月して私が生まれたというのだから、厳密にいえばいささか事情がややこしくなる。<半分>は済州島でということで、慰めにでもするか。いずれにしても、植民地時代の流浪の民の子には違いない。
 このように私は幼少の頃から故郷とは引き離された、いわば「故郷喪失者」として育った。それが私に対する故郷なるものの牽引力をいっそう強めたといえる。朝鮮での生活は二、三年ではあったが、それが青少年期であったがために、私の心身の全体に焼きついたその体験は、私の一生を決定するだけの力を持つに至ったといっても過言ではない。解放後四十年、私は済州島の土地を踏んでいないが(まさに「故郷喪失者」というべきか)、私は「済州島」に支えられて生き続けたといえるだろう。そして「済州島」は私にとって朝鮮であり、祖国を意味したのだった。
 奪われた祖国、奪われた故郷、自分の人生を顧みると、(私はいつのまにか作家というものになったのだが)、私の仕事は結局は想像力による奪われた故郷、奪われた祖国の奪還なのである。それは奪われた人間の奪還、自分をも含めた人間解放なのである。(金石範「済州島と私」1985年、60歳)


金石範の故郷への旅は、故郷を奪った本当の敵に美しく復讐すること、つまり小説を書くことを通して、人間としての極限的な恨、最大の恨を解くことだといえるかもしれない。


ところで、例えば1945年8月15日という日付は日本人にとっては「敗戦」を意味したが、彼をふくめた朝鮮人にとっては日本からの「解放」を意味したことさえ私はよく知ろうとしなかった。また、私にとって1948年4月3日という日付はつい最近までほとんど無意味でさえあった。そんな暢気な私が空気のようにまとう日本語の環境のなかで、「在日」という引き裂かれたアイデンティティの淵源から発せられる言葉は、日本語の温い空気を突き破って私の喉元に冷たく突き刺さる。