映画のための物語のための映画の物語


 『続続・辻征夫詩集』現代思潮社、80頁


辻征夫に「バートルビ」と題した散文作品がある。メルヴィルの小説『代書人バートルビー』にちなんだ話である。ブランショデリダドゥルーズアガンベンの哲学的分析より面白い。


ある時「ぼく」は知り合いの映画批評家から短編映画のシナリオを書いてみないかといわれた。シナリオといっても、映画のための物語といったところでかまわないという話だった。「ぼく」は昔ロンドンで観た『バートルビ』の本歌取りのようなかたちでならすぐに書けると思った。「ぼく」は二十数年前に連れの女と一緒にロンドンの場末の映画館でアンソニー・パーキンス主演の『バートルビ』を観た。そしてその映画館の暗闇の中でその女と別れるはめに陥った。それは一時間足らずの実験的な短編映画だった。ところが、その映画『バートルビ』のことを調べようとしたが、文献が一つも出て来ない。


そうして始まる辻征夫の「バートルビ」の中では、映画『バートルビ』はメルヴィルの原作とは異なって、バートルビが刑務所で餓死するまでは続かず、階段の踊り場に立っているバートルビを映すところであっけなく終わる。ところが、その最後の場面には、なんとカフカのオドラデク(Odradek)が登場する。カフカの生前に刊行された小品集『田舎医者』に登場するオドラデクである。「ぼく」はその文学的事件に心を奪われ、呆然とし、連れの女のことを忘れる。


映画『バートルビ』は存在しない。それは辻征夫の「バートルビ」の中にしか存在しない。それは映画のための物語のために辻征夫が物語った夢のような映画だった。


ちなみに、日本未公開の映画 Bartleby (2001) は存在する。