久しぶりに訪ねた友人の部屋で、本棚に何気なく置かれたモノクロームの写真に目が釘付けになった。「どうした? 写真が好きか? 欲しかったら、やるよ」彼は気軽にそう言った。「いいのかい?」私は躊躇した。「ああ、昔パリで買ったものだが、未練はない」「そう。でも、パリの思い出の品なんじゃないの?」「いや、思い出したいことなんて、もうないよ。いいから持ってけ」そこまで言うなら、と私は、もしまた見たくなったら、いつでもそう言ってくれ、と応えてその写真を預かることにした。
1924年、スイス生まれの写真家サビーヌ・ヴァイス(Sabine Weiss)が撮った写真「Paris, 1953」である。
葉が生い茂った並木の間から射す朝陽か街灯の光が年季の入った石畳の上にいる片足の男にスポットライトのように当たり、長い影を作っている。片足と書いたが、男のシルエットをよくよく見ると、彼はこちらに向かって駆けてくるところで、右足を後方に跳ね上げていることがかろうじて分かる。まるで何かに浮かれて子供が飛び跳ねるように走ってくるかのようだ。おそらくサビーヌにとってはごく親しい人物なのだろう。手前の暗闇のなかで彼女は彼を、というよりある瞬間を待ち構えていた。暗闇の持つ不思議な温もりを感じさせるモノクロームの写真である。
参照