叔父の葬儀

叔父の葬儀第一日目、いわゆるお通夜に参列後、親族の会食、懇談に参加した。明日は告別式の後、火葬場で叔父が灰になるのを待ち、従姉妹たちと、今後のことについて話し合うことになる。葬儀は想起させる。二年前、スタンフォード滞在中に、自宅で静養中の父親が緊急入院した知らせを受け、慌てて一時帰国して、結局2週間後亡くなるまでの、あるいはその前後の辛い記憶が次々と蘇った。父の葬儀後、父が独りで暮らしていた家をやむなく処分することになり、私は独りその家に残り、三代に亘って捨てずに蓄積された膨大な品々を前に呆然としていた。しかし、結局心を鬼にして、取捨選択し、最終ゴミ処分場へ一日四五回、片道四、五十分かけて1週間毎日往復した。あの地獄のような巨大な穴に、身を切られるような思いで、捨てることに決めた品々を投じたときの、思い出したくない感覚を、嫌でも想起させられた。あの地獄の記憶は私が背負うしかない、となぜか覚悟していた。

再び、スタンフォードに戻った私は、大学に隣接したオーク・クリーク・アパートメントのバルコニーで、毎朝、サンフランシスコ・クロニクルの「お悔やみ欄」、Memorialsを食い入るように眺めながら、アメリカ人の、あるいはキリスト教的な故人の偲び方、感情の深い動揺の処理の仕方に感心すると同時に、私が属する仏教的なシステムは想起と忘却を絶妙なバランスでプログラムしたものだという再発見をしていた。

取捨選択のうち、選択したもののなかには、明治、大正、昭和初期から2004年にいたる、膨大な写真、ネガ、ポジ、フィルムがあった。そこに映っている人がどこの誰なのか、場所はどこなのか、もはや確かめる術のない、そんな写真が沢山あった。私の知らなかった父や叔父の幼かりし、若かりし頃の写真も沢山あった。父が晩年狂ったように撮りまくった風景写真の数は手に負えないと感じたほどの数だった。だが、意を決した私はすべての写真、フィルムを、用意した10箱に、ざっくりと分類して収めた。分類するには、一瞬でも見なければならない。それだけに数日かかった。

今日の葬儀で久しぶりに会うことになる従姉妹たちのために、そんな写真の中から、叔父と彼ら彼女らが映っている写真を探し出し、私は持参した。会食・懇談の席で、昔話に花が咲いたとき、ごく自然に私が持参した数十枚の写真を彼らに見せた。皆、新鮮な表情で写真に見入り、想起した思い出話を思い思いに語り始めた。彼らの話が引き金になって、私もまた忘れていたことを、彼らとの幼い頃の交遊を思い出した。幾つもの時が複雑に交錯し、叔父の遺影に重なった。

こんなことを、ブログに書くべきではないのかもしれない。しかし、書かずにはいられなかった。私にとっては、この「はてな日記」との出会いは、今でも信じられないほど、何人もの人たちとの貴重な出会いを生んでくれた運命であり、私の人生を変えた場所なき場所だから、書いても許されるだろうと思った。