言葉を撮る

今朝の散歩で、はじめて「言葉」を撮った。

近所のお寺(浄土真宗)の掲示ケースの中。一年以上ほぼ毎朝見ていた言葉だった。なぜ撮ったのか。昨日から「画像データ」と「テキストデータ」のことをあれこれ考えていたからかもしれない。文字画像をOCR(Optical Character Reader:光学式文字読取装置)にかけるか、かけないか。かけずに画像のままで扱うとしたら、その画像にどんな「タグ付け」をしたらよいか。

唯 念佛のみぞ
 真実にて
  おわします。
親鸞
 のことばです

と「テキスト化」してしまえば、扱いはぐっと楽にはなる。が、その言葉に触れた体験の記録としては上の画像に比べ圧倒的に貧弱になる。

こんな卑近で些細な例の中に、一方ではbookscannerさんが取り組んでいるAmazonGoogle等の「本の電子化」が含み持つ人類史上画期的な技術と思想の問題に触れるところがあり、他方では美崎薫さんがGoogleを向こうに回して独力で取り組んできた体験の記録法と検索法の研究開発と深く連動した人間の記憶と想起、発想のメカニズムの研究に触れるところがある。

ところで、現状のOCRの精度の低さなどの理由から、テキストも画像データとして保存し活用している美崎薫さんが昨日のコメント欄で面白い試みを披露してくれた。これ。ある本のあるページの画像に「指」を写し込むというアイデアである。画像の中の「指」が画像にたいして外からテキストとして付けられる「タグ」の代わりをしているわけだ。むろん、それで「タグ付け」が必要なくなるわけではないが、本のページを画像のまま見る際には、「ここが大事」と言わんばかりの「指」がポインタのように写っていれば、(再)検索は確かに楽になるだろう。


これは今朝の藻岩山。昨日中腹のゲレンデにうっすらと積もっていた雪はすでに解けてしまって見えない。その部分の地肌が露出している。それは藻岩山につけられた大きな傷のように見える。こうして言葉で解説すれば、私がこの写真のどの部分に注目しているかが分かる。解説なしでは、私の関心は不明である。そこで、露出した地肌の部分に矢印を書き込んだり、指を写し込めば、私がどこに注目していたかは分かる。何を感じていたかまでは分からないが。

蛇足ながら、最初の親鸞の言葉ですが、「佛を念ずる」という悟りや覚りの勧めは、そのままでは堕落しきった現代日本人へのメッセージ力は極めて弱いので、風刺的に次のように書き換えれば、もしかして、少しは現状を反省するきっかけになるかもしれない、と思ったのでした。

唯 念金のみぞ
 真実にて
  おわします。

親鸞さん、ごめんなさい。)