ラハイナがリンクした

11月15日のコメント欄で、同じ場所で違う時期に撮った写真を見ることが世界(の見方)を変えるという文脈でちょとだけ話題になった本がある。

片岡義男著『ラハイナまで来た理由』(同文書院)
ISBN:4810376915

「ラハイナ」という耳慣れない地名はハワイのマウイ島のある町の名前。「ラハイナ」をSpotlight(Mac検索エンジン)で検索したら、次の記録が喚び出された。

ハワイの日系作家の中で,会話にピジンを使って第二次大戦前から戦中にかけてのプランテーションの生活を描いた人にミルトン・ムラヤマ(Milton Murayama)がいる。マウイ島のラハイナ出身。正確な生年はいまわからないのだが,第二次大戦中にミネソタ州にあったアメリカ軍の言語学校で訓練を受けてインドと中国で通訳として従軍したということから,年齢が推測できるだろう。彼が 1975 年に出した『おれの体だけよこせよ』All I Asking For Is My Body は,ハワイの日系二世の経験について書かれた,もっとも説得力のある作品だといわれている。
(菅啓次郎「『ピジン』と文学」立命館言語文化研究 17 巻1号)

今手元にある『ラハイナまで来た理由』の背表紙には、次のような印象的な紹介の言葉が読める。

一枚の写真。たとえば古いアルバムのなかの。いつ、どこの、どんな物語のひとこまなのか、写っている人にしか分からない。写っているその場面の前後に流れた時間のなかに、被写体となった人たちの人生がある。どれもみな写真のような、二十八篇の物語。片岡義男の一人称によるハワイ小説の、待望の第四作。

この本の冒頭に「ラハイナまで来た理由」が置かれている。その中に登場するラハイナに住む二系二世フランシス・K・アカミネは、次のような「英語」を話す。

ユー・イーティング・ウィズ・アス、ヨシオ? ウィール・ハヴ・ディナ・ウエイティング・フォ・ユー。

著者はこの科白だけでなく日系二世の「英語」の科白すべてに、このようなカタカナ表記を徹底している。ここには単に日本人読者への配慮ということではなく、それらが「英語」ではないという明確な認識が現れているように思う。というのも、この科白部分を例えば、

You eating with us, Yoshio? We'll have dinner waiting for you.

と英単語表記して、「日本語訳」を併記することによっては、示すことのできない、逃げて行ってしまう言語的事実があるからである。それらはあくまで日系二世独特の「話し言葉」であるというわけだ。こういうところに、片岡義男の言語センスが光っている。「ピジン感覚」とでもいえばいいだろうか。もちろん、彼は知識として「ピジンクレオール」について知らないわけはないだろうが。

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ところで以前、幼児の頃の「私」が写っている写真を見ても何も思い出せないことを巡って書いた。それは私なのか?と。しかし考えは中断したままだった。上の紹介の言葉、「一枚の写真。たとえば古いアルバムのなかの。いつ、どこの、どんな物語のひとこまなのか、写っている人にしか分からない。写っているその場面の前後に流れた時間のなかに、被写体となった人たちの人生がある」が思考再開の手がかりになりそうに思えた。

写っている幼児を私は「これは、これも、私だと」と私に言い聞かせる。40年以上昔の全く何も思い出せない「写っている私」に今の私は、例えば「責任」を持てるだろうかと不図疑問を抱く。しかし逆にそんな昔の見知らぬ「私」も私であると受け入れることは悪い気はしない。

一面では「私」は更新し続ける。人生は断-続を繰り返す。普段は「私は私である」のは改めて考えるまでもなく自明なことだと感じているが、しかしそれこそ奇蹟のような謎だと感じる時がある。まるで「私」という接続器のような語が、断絶した記憶をかろうじて繋いでくれているだけのように思える時がある。