毎朝、私は世界の果てまで旅をする

毎朝散歩のときに欠かさずカメラを持つようになってから、その日その日の心の状態をこまめにチェックすることができるようになった。ほぼ毎日同じ道をたどるので、目に入るほとんどの対象は同じものである。もちろん、見えは毎日変化する。しかしそれらを見る私の状態が対象の見かけの変化に覆い被さるように克明に言わば映し出される。今日は荒んでいる、とか、今日は沈んでいる、とかがはっきりと分かる。分かったときには、すでに心は荒んでも、沈んでもいない。これが家を出て数分の間に起る。

その後、首からぶらさげたカメラに促されるように、意識は次第に対象の方へと強く向かい始め、気づいたときにはシャッターを切っている。毎日必ず新たな発見がある。私の世界の対象は着実に増えている。10分もたてば、完全に眼はカメラと連動している。脳はカメラと直結している。そんな感覚がある。距離にして全行程の三分の一くらい。そして、その後は、いつまでも、こうして散歩していたい、という気持ちが持続する。

その間、日常のほとんどすべてのことは忘れている。記憶の背景に退いている。ワーキングメモリーは目に入る対象のイメージで満たされる。自然と対象に語りかけている。もう一人の自分と対話をしている。そのときに私が実感している「世界」は世間や社会ではもちろんない。で、不思議なことに、「いま、ここ」ではない、過去にいた場所の感覚が次々と蘇る。もう、どんな音楽も、文学も、哲学も、思想も、必要ない、なんて気分になる。

家に戻るまでのわずか3,40分の間に、私はまるで世界の果てまで行って来たような清々(すがすが)しい気分になる。そんな旅に毎日つき合わされる風太郎はちょっと気の毒だ。で、その分、夜の散歩は風太郎の嗅覚世界旅行につき合っている。