時の眼

専門演習が終わった後、偶然訪ねてくださったIさんと「本の身体」、「映画の微粒子」というビジョンを中心に色んなことを話した。

そのときには言葉にするにはいたらなかった思いを言葉にしておきたい。

時計とカレンダーに催促されるような普段の生活を映画的時間というか神話的時間に接続して、可能なかぎり、それに浸そうとしている私にとって、「映画の微粒子」という表現は分かりすぎて、気恥ずかしくなるような言葉でもある。そもそも映画は物理的な、歴史的な時間の流れを切断し編集して「神話的な時間」を創造するものだ。

そして、そのような映画を観るという経験は、日常から離れて非日常の時間を、不思議な時間を経験することである。普通はそれで終わる。映画を見終われば、みな日常の時間に戻る。しかし、そんな映画の見方と日常の過ごし方に強い不満を持っている私はいつのころからか、日常を映画化してきた。

非常識な奴だと自分でも思うが、しかし、映画がそんなに好きなら、そのくらいの実験をするのが当然だとも思っている。でなければ、ほんとに映画が好きなの?と訊きたくなる。蓮實重彦さんが自身のサイトを「あなたに映画を愛しているとは言わせない」と命名したことの意味をめぐって以前にも書いたように、映画経験とは本当はそのぐらいに人を唯物論的に動かすものなはずだと思っている。

そして、時間について。多様な時間の流れ方、有り様を感じるだけでは足りないのだと思う。Alvaro Cassinelli君が、The KHRONOS PROJECTORで見せたような、映画という神話的時間をあちら側に孤立させないで、こちら側に引き入れる、引き込むような、あるいはその時間に文字通り「触れて変化させる」ような、おそらくフィルムを編集しているときに映画作家たちが体験しているはずの、時間に手を差し入れるような、「神の領域を侵す」ような経験を作り出すことが必要なのではないかと感じている。

本ついてもまた、テキストを介した意味を超えて記憶の襞に深く棲み込むような身体性を尊重するならば、物理的な本への愛着を、これでもか、というほどに見せしめるような、それを見た人を思わず嫉妬させるような行為の舞台を作れないかなあ、などと思いを巡らしてしまう。だから、「本の身体」というビジョンを「本のエロス」へと繋げることが必要になるんだと思う。

再び、時間について。時間をつかまえようとするのではなく、逆に時間の側からこちら側を見る、そんな時間の眼、時の眼っていう、突拍子もないことを考え始めています。